言葉の持つ力とその限界
私は文章を読むことが好きです。
いろいろな人が違った角度からもの見て意見を述べたり、自由な創造の世界を体験できる。新たな事実も知ることができる一方、自分とは相対する真逆の論説を力説しているものある。
いずれにせよ読んでみないことには始まらない。
このnoteにも本当に面白い内容や、参考になる見解、上手な文章表現など宝の山だ。みなさん、ありがとうございます。
この読むという行為であるが、受け手の取り方により伝わり方が大きく変わる。当然であるが、そもそも強要されてもいないnoteのようなものを好んで読む人は読解力が高い。一方、半世紀も生きていると場面場面で出会う人の質は階層的に異なり読解力もまるで違う。こいつマジか?というレベルも。
私は「文章が読める」のいろいろ
ある本の話をしている時に、内容がまるで分っていない者がいる。字面は読んだのだろうが、タイトルと帯以外まるで分っていない。これは本が読めるのではなく、文字が読めるというのだ。私もつい見てしまうのですが、いわゆるショート動画などはインパクトがありよくまとまっている。実際には端折りすぎているのかもしれないが、見終わったときに何だかわかった気になる。理解するのにおおよそ能力など必要としないという印象さえ受ける。
次に文章の意味が分かるというものだ。何が書いてあるか、字面を追って内容は書いてあるそのままの通りで、認識や解釈を必要としない。いや。独自の解釈を加えてはかえって本意が伝わらなくなる恐れもあるのでこれでいいのかもしれないが。
文脈が読める。このレベルになると前後の相関関係や、時系列の的確な理解、過去の内容との関連や構造がはっきりとわかってくる。論文などをきちんと理解するにはこのレベルが要求され、現在読んでいる箇所を理解するために、過去の箇所の内容を頭の中に一時的にでも知識としてストックしておくことが必要だ。
行間が読める。具体的な記述はなくとも、関連において筆者が述べたいことの言外の推論というようなものができるレベルではないか。感情へ思いをはせることや省力している文言を自ら補足し組み上げる力も必要になる。
文章には保存と伝達の目的がある。保存はつまるところ後の誰かへの伝達を意味するので、最終的にはきちんと全部、あるがままに伝えるために伝わってほしくて書いているのではないか。その意味では究極は以心伝心となる。
お釈迦様の「お前も悪よのう」は無い
ドラマなんかで、悪役二人が目を見やってニヤッと笑い同じような悪事を暗黙の合意で進めるような場面がある。ドラマでは嫌いではない場面だが。
以心伝心は悪いことが伝わることはない。
それはなぜか。
お釈迦さまは弟子にこう言った。
「私には真実を見抜く知恵がある。しかしその知恵は定まった形のあるものではない。それは実に微妙なもので、文字でも言葉でも表現できない。だから私の教えは、心から心へと伝えられるべきものだ」。
此れを正見と為す、というものですね。
なるほど、言葉ではなく思いが伝搬し伝わる世の中であれば誤解や嘘や齟齬がなくなりもっと素晴らしい世の中になるのではないかなと。
選挙公報を見ながらそんなことを思うのでした。