虫を探したくなるような建築
1. マークフォスターゲージの建築
最近マークフォスターゲージの建築と彼が言っていることにすごく興味があり、色々考えさせられている。マークフォスターゲージとは、僕の通うイェール大学建築学科の卒業生でニューヨークを拠点に活動する若手建築家の一人だ。現在は准教授としてイェールで教壇にも立っており、生徒の間では親しみを込めてMFGなどとも呼ばれている(なので以下MFGとする)。
彼の作品は基本的にオブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology:以下OOO)というグレアム・ハーマンを中心とした哲学思想にインスパイアされたものであり、アメリカの建築界隈では「OOO一派」などとも呼ばれ、ちょっとしたトレンドにもなっている(2017年5月号のa+u、米国の若手建築家特集にも掲載されているのでご存知の方もいるかと思う)。
Fig.1. MFGの作品(ヘルシンキグッゲンハイム美術館)
上の作品は彼のヘルシンキグッゲンハイム美術館のプロポーザルなのだが、見て分かる通りなんかぐちゃぐちゃしていて生き物の足みたいなものも付いているし、「なんじゃこりゃ」という第一印象しか浮かばないちょっと不思議な作品を世に送り出している。当然のことながら、こんな複雑で難解な構造物を建てるのは容易では無いため、建築物としての実作はほぼ無く、いわゆるペーパーアーキテクトという評価を下すこともできる。
一方で彼のOOOを引き合いに出した建築に対する問題提起はなかなか興味深く、それゆえ彼の作品はたとえ紙面上であろうとも何か示唆的なクオリティを持っている。少し長くなるが、彼の問題提起を以下引用しながら紐解いていきたい。
これがいわゆるOOOという思想の大雑把な要約である。もっと広い枠組みで見ると、この考え方は「思弁的実在論」という思想潮流の中に位置付けられており、カント以降の近代哲学思想が依拠してきた「相関主義(Correlationism)」を乗り越えようとする共通点を持つ。相関主義とは一言で言えば、我々人間がアクセスできるのは自らの思考と「もの」の相関関係だけである、とする立場である。これの何が問題かと言うと、上述のMFGによるドゥルーズの引用の通り、この立場に拠ってしまうと人間の思考の範囲でしか「もの」について記述できなくなってしまい、人間の思考から独立した「もの」そのものにアクセスできなくなってしまうという点が挙げられる。だから、"「もの」はさらに人間が知覚できない、多様な価値をさらに持っていると考えられる" のである。
ではこれがどう建築にとって重要なのかと言うと、これまでの近現代建築は常にこの「相関主義」的な考え方によって成立してきたと言えるためである。そしてそれの何がまずいかというと、再びMFGの言葉を借りれば以下のようになる。
このように、MFGは20世紀以降主流となった「コンセプト」や「ドローイング」による建築物の評価が、すなわち二つ目と三つ目のシナリオが、建築物の「もの」としての「実際の価値」をないがしろにしてきたと言っているわけである。例えば「住宅は住むための機械である」と言えば、住宅が「機械のように機能的であること」が評価基準となるし、「Less is More」と言えばデザインがいかに「Less、ミニマル」であるかが評価基準となり、あるいはOMAのダイアグラムなら「いかにプログラムが充填されているか」といった実際にはただの希望的観測でしかないドローイングが評価基準になってしまうのである。そして、このように建築を何か別のものとの関わりを通して評価しようとすることがまさしく「相関主義」なのである。結果として彼は現代の都市空間・建築を次のように批判する。
さて、この議論から彼の作品が一つ目のシナリオに戻って建築の「実在する物体」としての「実際の"美的"価値」を高めることを主題としているかと思いきや、そうではないのである。なぜならこの「実際の価値」はOOOによれば、人間の思考からはアクセスできない「未知の価値」をも含んでおり、そんな得体の知れないものの価値を高めようなどと言っても土台無理な話なのである。ましてやその"美的"価値なんていう抽象的なものは誰にも評価できないのである(そもそも「美とは何か?」という問いにある枠組みを与えて評価可能にしたものが「Less is More」などといったコンセプトだ)。
むしろOOOやMFGが示唆するのは、「もの」の背後には人間の思考からは知覚できない無限の価値が実際には隠されており、その事実に自覚的になることで我々にとっての「もの」の価値、「もの」に対する興味はさらに高まり、ひいては我々の現実の「もの」に対する認識を根底から覆すかもしれない、ということである。ブラックホールが良い例だろう。ブラックホールは実在する事はわかっているが、何万光年も離れている上に全ての光を吸収するその特質から、中に何が隠されているか、その仕組みはどうなっているか、あるいはどんな姿形をしているか、人間の目からは確認できないし、ブラックホールに関する一つの発見が我々にとっての「現実」であった科学の根底を覆すかもしれない。だからこれだけ人々はブラックホールの姿を捉えた写真に熱狂するし、色んな科学者がブラックホールの全貌を解き明かそうと日々奔走しているわけなのだ。
そしてOOO曰く、そんなブラックホールは我々の身の回りのありとあらゆる「もの」にも潜んでいて、同じように我々の現実に対する認識を変えうる力を持っている、と言っているわけである。
では、MFGはこれをどのように建築と接続しようとしているのだろうか?彼がやりたいことは、大雑把に以下の2点にまとめることができると僕は考えている。
1. 建築を「現実に対する認識の拡張」を促すツールとして用いる
2. 人が興味を持つような「奇妙で不可解な」建築を作ること
まず一つ目について、上述の「建築の3つのシナリオ」に続く以下の文章が全てを説明するだろう。
これはOOOのハーマンも触れるように、ヒラリー優勢と言われる中、蓋を開けてみたらトランプが大統領になってしまうような、あるいは大手IT企業が集めたビッグデータで裏で何をしているかわからないような、あるいはメディアによる真実の報道が信用を失いつつある、そんな「ブラックボックス化された現実」であふれている現代社会に対して、建築がとるべき文化的・社会的な応答だと見る事もできる。そして、そんな失われてしまった現実へのアクセス、すなわち我々の現実に対する認識の仕方を建築を使って拡張・回復することはできないだろうか?とMFGは言っているわけである。そして建築は歴史的に見ても、例えばブルネレスキの透視図法のように、「我々がどのように現実を見るか?」という問いと密接に関わってきた分野とも言えるのである。
ではどうやって我々の現実に対する認識を建築を使って拡張するか。それが二つ目の、「奇妙で不可解な」建築を作る、というテーマと繋がってくる。
ここで一旦OOOに戻り、ハイデガーの「存在と時間」における道具分析を引き合いに出したハーマンの次の文章から考えてみたい。
これは同じくハーマンがよく使う"ハンマー"(ハーマンのハンマー笑)の例えを使うとわかりやすい。つまり人がハンマーを使って釘を打っている時、その人の意識において自分が「ハンマー」を使っているという意識はほぼ消えている。「お前なにやってんの?」と聞かれて「ああ、"ハンマーで"釘を打っているよ」なんてわざわざ言う人はいないのである。しかし、一旦この"ハンマー"が壊れて"釘を打つ"という目的に適った働きができなくなった時に、初めて「"ハンマーが"壊れた」と、その人の意識の俎上に"ハンマー"が浮上してくるわけである。そしてこの例えのように、現実世界は人間の意識の俎上に上がってこない、「未知の価値」を持った「もの」であふれているのである。
そしてそんな膨大な「未知の価値」を持った「もの」であるべき建築物を、道具という「何か特定の目的に奉仕するもの」というベールで覆い隠してしまったのが、19、20世紀の建築におけるモダニズムなのである。MFGはこの問題に触れながら、建築が奇妙で不可解であるべきという考えを次の文章で暗に示す。
すなわち、建築家は建築物という「もの」が持つ様々な価値をコンセプトとして単純化し覆い隠すのではなく、人間に知覚可能な範囲の価値(OOOではこれをSensual Qualityという)を操作する事で、さらにその先の知覚できない価値の存在をほのめかすことで、現実に対する新たな認識・アクセスの仕方を喚起しようというわけだ。そしてそんな人間の意識の外にあるような新たな現実に対する認識を示唆するには、建築は同じように人間の意識の外にある「奇妙で不可解なもの」でなければいけないと言っているのだ。なぜなら同じように「奇妙で不可解」なブラックホールに人々が魅せられ新たな現実のヒントを求めるように、建築も「奇妙で不可解」でなければ誰も興味を持ってその奥にある現実を求めようとはしないからだ。
MFGの次のTEDTALKでの言葉にもその考えが表れている。
だから、MFGの建築は「奇妙で不可解」だけどどこか興味深いし、よくわからないけどよくよく見ると現実には存在し得ないような色々な物事の考え方が見えてきて、ハッとさせられることがあるのである。
例えば色々なオブジェクトがぐちゃぐちゃに融合したヘルシンキグッゲンハイム美術館を遠目に見ればただ「奇妙」な建築物だけど、興味を持って近づいて見てみると、「ミニオンがタコの足に絡めとられた横に人の顔がある」、「いや、あれはミニオンの体にタコの足がついた人間の顔を持った怪物だ」みたいな人によって千差万別な、普通は考えないような物事の関わり合いについて考えることができるし、
Fig.2. ヘルシンキグッゲンハイム美術館の部分スタディ
色々な長方形が無限にフラクタルに増殖していったような構造物を見れば、どこからがディテールでどこからが構造なのか、あるいはディテールがそもそも構造なのか、普通なら分けて考えるものも同じもののように見えてくるかもしれないし、
Fig.3. National Center for Science and Innovation Proposal by MFG (2016)
鏡貼りの色々な形の平面が色々な方向に繋がったような内装を見れば、普通は「自分に似合うかな」と個別に品定めしていく洋服が、実はごちゃまぜに溶け合いながら自分の周囲の環境を構築しているような、新たな洋服の見え方も生まれてくるわけだ。
Fig.4. Nicola Formichetti Stores by MFG (2011-2013)
さて、ここまでかなり長いことMFGの建築についてその思想やOOOとの関わり方について考察してきたが、とどのつまり、MFGの建築は一言で言えば「虫好きの少年の感性」を持っているのだと僕は考える。そしてこの「虫好きの少年の感性」が、僕がMFGの建築に興味を持つ理由であると同時に、MFGの建築の弱点、ひいてはOOOから建築を考えることの弱点につながるのではないかと思った。
2. 虫好きの少年の感性
さて、では「虫好きの少年の感性」とはどういうことか。
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