自分がいないのは当たり前
人の認識はあるものをあると感じ、ないものは知覚しません。
お金がない、という感覚はお金が足りない、つまり”あるの反対のない”です。”ない”ということを人は直接認知できません。
というのは極端なお話です。人間は知識を通して”ないものがある”ということを知っています。
また”ない”ことを直接知覚する事も出来ます。
夜空の星のあいだ、吹き去った風、思い出せないなにか、食べてしまったプリンのうつわ、数字のゼロ。そういうところにことばにならない気配として感じます。
人は感じている、だけど言葉にできない
言葉の間に流れるなにか、記号と記号のあいだ
すりぬけて宇宙に消えていく
自分の身体だってまるで透明
いったいどこにあるのだろう
そんな感覚は忙しい現代には何の役にもたちません。
今ここにある確かな実感だけが自分がいるということの根拠になります。
私たち人間以外の自然からみたらもちろんどうでもいいことですし、昔はわたしたち人間にとってもどうでもいいことだったと思います。
そのそも、自分がいるという感覚自体が人間の都合ででっち上げた作り話です。でもその感覚がなければ空気がない、かそれ以上に苦しむくらいに大切な作り話です。
作り話。虚構。想像の中の話にすぎませんが人間はそれにこだわります。映画に感情移入をしてしまうくらいに、リアリティがあるから。
人間は存在の証拠が欲しくて欲しくて、でもそれを得る事はできません。
答えはご想像の通りですし、答えを知っている人も多くいると思います。
木のふもとにも
石を剥がしてみても
空の彼方にも
自分の声が聞こえる
この手元、目の前のスクリーンにも
本の中の昔のひとのことばにも
目の前の猫のあたまのなかにも
愛する人の記憶の中にも
古いアルバムのなかにも
どこにもいない
自分が何者かを知らずに私たちは生きています。
じゃあこの身体は、この心は、この言葉は、この生活は、この人生はなんなんだ。それを知る事が人間にはできません(諸説ありますが)。
ただ生きる事しかできない、現状そのまま全開で生きる事しか許されていません。結果も約束されず、ゴールも知らされず、ただただ生きるだけです。
確かに人間は原因と結果の連続の中で生きている。
ただそれは一方向にしか働かず、逆戻しすることも、俯瞰する事もできない。操作を試みる事もできる。そうやって満たしたものもただ消えていくだけです。
それをわびしく悲しく思う虚しさの色は少し青みがかっている
心が痛んだり癒されたり
生きていることを愛おしく感じる
人間としての暖かみを懐かしく感じるそんな場所にいるとき
自分はどこか思い出の1ページの中で我を忘れている
そうして人は立ち止まって生きている時も
身体を通過する透明な時間の流れ
人の命の最後の瞬間には
全てをどこかに流しさり
あとには何も残らない
だから今生きている事ってなんなんだろう、って不思議に思います。
生きる事に意味も価値も求めてもからっぽなだけ。
そもそも自分が作り話だから。
映画の中にいた美女もお金持ちも戦争も本当にはなかった。
別にだからって怒るような話でもないと思います。(もし納得がいかないとすれば、それは勘違いをさせられているからです。あなたのせいだとは思いませんが、かといってこれの件は責任を突き止める事はできない種類のことです、悲しいだけの話です。)人間以外のものはみんなそれで合意がとれているようです。とらえ方次第、それでよい。といっている人間だって沢山います。
とくに珍しいことではない
ふとした感覚に魅入られて森に入ったひと
それ以来会社に来なくなったひと
本当に幸せになりたくて
嘘の幸せをやめてみた
そのひとがどうなったかはだれも知らない
ただの宇宙の塵のような話
広い広い世界の話
お話の話
この狭い世界で自分たちは何をするのか話さなくてはいけないのに。
ちなみに私はこの文章を書いていました。
あなたは何をしていましたか。
こうして世界が回っている事、あなたが私の文を読んでつながったこと。
あなたの時間の隙間、思考の隙間にわたしがお邪魔したこと。
それでは。