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”リアリティ” 〜隠れたハンデ〜

実際自分は生きている、それは間違いないと思います。

でも生きている実感がないとか、生きている資格がないのでは、そんな考えにとらわれることがあります。まるで自分のことが他人事のようで、思い通りにもならない。ものごとをやってるんだか、やらされてるんだかわからない。一所懸命生きているふりをしているのではないか。そんな風に思えてしまう事もあります。そしてそんな考えは上手くいっているときは、さっぱり消え去り、問題に向き合っている時、悩んでいるときに立ち現れ、自分の存在を疑う深さで苦しむ、長い間そこにいて出てこれないこともあります。そうしているうちに心が病み、思考が病み、身体が病んでいきます。一方でそれが分からないくらい感覚も鈍ったまま日々は進行します。

一体自分はどこにいるんだろう
一体何をしているんだろう
がんばってみたところで同じ事のくりかえし
この人生は自分のものだ
だから自分で切り開く
でもなにをどこでどこにむかって
きっとわかる時がくる
それまでがんばって毎日を生きよう
自分は間違ってはいない

そうやって思いの中にどんどん沈んでいきます。目の前の現実と頭の中の現実がごっちゃになって区別もつかなくなって、次第にどうでもよくなってしまいます。次第にっていつのことなんでしょう、考えるとこわかったりします。そういった”隠れたハンデ”は行動を邪魔するし、邪魔された分が負債のように積もって増えて、心がキャパオーバーしてうごけなくなります。

問題は自覚している、だから対策をとればよい。
とはいってもとれない。現実が厳しすぎて。

そうすると、現実ってなんだろう、っていうことを考えてしまいます。
私たちは実感できるものを現実だと認識しています。食事、コミュニケーション、仕事、家族、思い出、喜び、風景、テレビ、映画、ニュース。なんでも自分たちにとって現実です。そしてそれは自分の周りにあるもの、それに自分は向き合っているわけです。その”自分”という感覚には圧倒的なリアリティがあります、リアリティの根源、リアリティの王です。
ですが、自分というものも感覚のひとつで、絶対的なものではない、まいなーではありますが、そういう考えが起こったり、感じたりすることがあります。

影がゆらぐ庭の壁
土の上
葉っぱの脈
柱のこちらがわ
洗濯物にも影がうつる

無数の草が花が
きっとそこには虫たちが
太陽の熱をうけとって
はたらいている

静まり返った石
消滅していく雲
風にゆられ
花が地面に落ちる
きっと2.5mくらいだろう
ぽとりふわり

自分は悲しいくらいここにいません。でもこの存在は消えてなくなるわけではなく、むしろ虫や木々や石と同じくらいにここにいます。自分であることを忘れて、ただただ存在が全開しています。我を忘れて。私もあなたも。

「ものごとは思うようにはならない。」と禅僧の南直哉さんは仰ります。それでは困るが、そうかもしれない。受け入れなくてはならないほどは困ってもいないし。一体自分たちは何を信じたらいいのだろう、とにかく苦しいなんとかしたい。生きる事で精一杯かもしれません。でも日々追いつめられ、いつかはタイムオーバーになるのではないか、という感覚をひっくり返すなんてことを考えてしまいます。

自分の生きて来た過去は一瞬の夢のようなもの
鮮明に覚えていることも
実際は色あせた写真のひと幕
いろいろと思い悩んで、がんばっていまここにいる自分
だれにも知られる事のない自分
整理する時間すらない思い出
自分だってしらない自分
それでも大事な思い出
自分が自分に提示する証明

自分と思い出
思い出と自分
いつか自分は消えて
思い出だけになって
最後は思い出も消えていく
そうしてなにごともなくつづいていく
私たちが笑ったり怒ったり泣いたりしている日々
そんな一瞬があった

忙しい日常は終わりません。ただ今を生きれるだけ生きる。ままならないのなら、手探りでも生きてみる。手を伸ばしてみる。感じてみる。実感、リアリティとは些細な感覚からできているのではないでしょうか。自分のいる大きなお話と自分の指先の小さな感覚、身体を満たして抜けていく呼吸の体感のつながりが戻って来たとき、きっと自分は”生きている”実感、リアリティを取り戻せるのではないかと思います。

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