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虫も殺さない

ブータンの人たちは、すべての命を大切にする。
仏教の不殺生の教えを厳守し、虫も殺さない。
道を歩くときにも、蟻を踏んづけないよう、十二分に注意して歩くほどだ。
一般庶民のすべてがそうかといわれると、確言はできない。
少なくとも、しかし、僧侶とお年寄りは間違いなく、虫一匹殺さないように見えた。

道の右側は、ピンクのコスモスでいっぱいだった。
少し進むと左側に、黄色い花群が見える。
菜の花だった。
日本ならば、春と秋が同時に来たようなものだ。

菜の花畑に入ったら、ひどく臭かった。
もちろん、菜の花の匂いではない。
肥やしだろうか。
半分は当たっているかもしれない。
足元を見たら、うんこだらけだった。

少し離れたところに、おばちゃんだかお嬢さんだか、判別のつかない女性が、しゃがみこんでいる。
にっこり微笑んで、立ち上がった。
年齢は不詳だが、笑顔は若々しく、愛らしかった。
ばつが悪くて、引き攣った笑顔を返すのがやっとだったが、悪いことしちゃったなあという気にはならなかった。

街に入る。
この地方でも有数の大都会である。
大都会とはいえ、道は舗装されていない。
駄菓子屋めいた粗末な商店が、歯の抜けたように軒を並べているだけだ。

商店街はたちまち途切れ、また田舎道が始まる。
セミが鳴いている。
アブラゼミとクマゼミを、足して2で割ったような、趣のない一本調子の嗄れ声。
春と秋に今度は、夏が闖入してきたのだ。

見通しのよい細道の向こうから、大きな籠を背負った男がやってくる。
中肉中背で、農夫の佇まいだが、やはり、この国ではお定まりの、着物に似たゴーをまとっている。

「クズ、ザンポー」

片言のゾンカ語で挨拶してみる。

「クズ、ザンポーラ」

丁寧語の「こんにちは」が返ってきた。
なんとか通じたようだ。

続けて何か話さなければと思うが、後が出て来ない。
とりあえず籠を指差して、

「アニ ガチモ?」

それはなんですか、という問いに、男は何か答えた。
聞き取れない。

籠の中を覗き込むと、赤いものがいっぱい入っていた。
こちらの困惑を見て取って男は、少し離れたところにある、一軒家を指差す。
屋根が真っ赤に染まっていた。
どうやら唐辛子を干しているらしい。
そう思って籠の中のものをよく見ると、やはり唐辛子の実のようだ。
納得して頷くと、男はにっこり無邪気な笑顔を返して、立ち去っていった。

日差しが強い。
激辛の唐辛子を、それと気づかずに口に入れた直後のように、めちゃくちゃの季節が、目の中でぐるぐる回りだした。

その時巨大な黒い塊が、どどんと目の前に墜ちてきた。
岩か壁か。
見上げると塊は延々と空まで続いていた。

「ああ、よかった。
危うく踏みつぶすところだった…」

はるか上空から、声が墜ちてきた。
嵐のように轟々と響き渡る、重低音の声だった。

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