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下河辺男爵

下河辺男爵に初めて遇ったのは、蒸し暑い夏の夜だった。
場所はマンションの駐車場。
野良猫に餌をやっていたら、怒鳴りつけられたのだ。

越してきて間もない、新オーナー住民のようだ。
とにかく猫が大嫌いで、視野に入るだけでも許せないらしい。

野良猫はどんな悪い病気を持ってくるかわからない。
車に傷をつけたりもする。
マンションの敷地に野良猫が出没したりしたら、資産価値が下がる。
餌付けするなんて、とんでもない話だ。
立て続けにまくしたてる。

翌日には管理会社から、電話がかかってきた。
苦情が出ているので、マンションの敷地内では、猫に餌やりをしないでくれとのこと。
その日のうちに、「野良猫に餌をやるな」というポスターが、駐車場に貼りめぐらされた。

押しの強いこの新住民が、下河辺男爵だった。
本名は下河辺爵男。
爵男は「たかお」と読むらしい。
中堅の商社を早期退職したばかりという。
身長は180㎝をちょっと切るくらいで、僕とほぼ同じだが、僕とは違ってがっちりしていた。
短めの髪で、体育会系の雰囲気だった。
家族についてはわからないが、目下のところでは単身っぽい。

関われば腹が立つばかりなので、こちらはできる限り先方に接触しないように努めた。
管理組合から何か言ってこれば、言いたいことだけははっきり言ったが、それ以上のことは何もせず、身を潜めていた。
当初の印象が災いして、下河辺男爵にはあまり関わりたくはなかったのだ。

その後しばらくすると、下河辺男爵がマンションの管理組合の理事長に就任して、規約をいじりまくっているという噂を耳にした。
経費を節減したり、マンションの資産価値を高めるという大義名分のもと、それなりに有意義な改善もあるらしい。
いずれにせよ、直接僕の身に降りかかてくるような変化は当面なかったので、静観していた。

ところがある一件を機に、そうも言っていられなくなった。
それは、交通事故の野良猫を保護したことに始まる。
動物病院に連れて行って必死で看病し、なんとか一命は取り留めたものの、下半身に障害が残った。
一応里親を探してみたが、見つからなかったので、やむなく自分で面倒を見ることにする。

大家さんに相談すると、マンションの規約上問題なければ、飼ってもかまわないという。
管理人室で規約を見せてもらったところ幸いにも、ペット飼育可の規定が見つかった。

ところが意外にも、ペット可の規定は最近付け加えられたことを知った。
下河辺男爵が理事長になって以降だ。
それまではペットの飼育に関しては、なんの規定もなかったということだ。
猫嫌いの彼が仕切っていながらなぜ、ペット不可にならなかったのだろう。
もしかしたら彼は、猫は大嫌いだが犬が好きだったりするのだろうか。
あるいは、他の住民や理事からの強い要望があったのかもしれない。

但しペットの規定には付則があって、飼う際にはペットの種類や特徴について、事前に詳しく管理組合(理事長)に報告し、許可を得ることが必要となっていた。
なるほど、これでしっかりチェックしようという魂胆か…

土曜日の午後11時ごろ、305号室に降りて呼び出しチャイムを押す。
この曜日のこの時間ならば、在宅しているような気がした。

「はいっ」

「おはようございます。
605号室のたこやまです。
理事長さんにお話が…」

下河辺男爵がすぐに顔を出して、僕を玄関に招き入れた。

「ちょっと取り込み中なんで、上がっていただけないんですが、ここでいいですか?」

「ええ、すぐ済みますから…」

そのときだった。
下河辺男爵の頭の脇に突然、にゅっと大きな頭が現れたのだ。
蛇だった。
巨大な蛇の頭部だった。

「こらこら、マリアンヌ。
お客さんなんだ。
すぐ戻るからリビングで待ってなさい」

「ニシキヘビですよね」

「ええ、アミメニシキヘビです」

「ずいぶん大きそうですね…」

「ええ、10メートル以上あります」

僕は蛇も嫌いではないので、マリアンヌちゃんについていろいろ訊いてみたい気もしたのだが、とにかくまず、本題の方を片付けることにした。

「保護猫を部屋に入れたいんですが…」

「ええ、もちろん構いませんよ。
規約でも認められていますから。
ただ絶対に、外に出したりはしないでくださいね。
周りに迷惑が掛かりますから。
あっ、それからもうひとつ。
マンションの敷地内では、野良猫に餌をやらないこと」

マリアンヌちゃんのことはやはり気になったのだが、ちょっと不機嫌そうな表情が垣間見えたので、僕はそそくさと辞去した。

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