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歌の町

下別府さんは歌町に住んでいる。
最近そこに引っ越したばかりだ。
何が悲しくて引っ越したのだろう。
とにかく面倒臭い町なのだ。

僕は下別府さんにゾンカ語を習っている。
ブータンの国語だ。
下別府さんは、青年海外協力隊としてブータンに長く滞在していたこともあって、ゾンカ語に堪能なのだ。

歌町に入るのは、きょうが二度目だ。
本当ならば、あまり入りたくはないのだが、下別府さんみたいに有難い先生は、ほかに見つかりそうもない。
多少の我慢は致し方あるまい。

町には特に、関所のようなものがあるわけではない。
その代わり、町に至る道の入り口を中心に、あちこちに立札が立っていて、次のように書いてある。

※猫町の町内においては以下を厳守してください。

(1)屋外を通行中は歌を歌わなければならない。

(2)同じ時間に他の歌唱者と同じ歌を歌うことはできない。
 
(3)同じ歌は一日当たり3回まで繰り返すことができる(連続でも間隔を置いてでも可)。

(4)歌を休止して立ち止まることはできるが休止時間は3分までとする。

歌…というか音楽は大好きなのだが、歌うのはあまり得意ではない。
得意もくそもなく、周りの人がみんな歌っているのだから、まあ、恥ずかしがる必要は何もないかもしれない。
むしろ、声のでかい他の人に惑わされないようにすることの方が重要だろうか。
僕にとって一番の問題は、しかし、レパートリーだろう。
聴くことに慣れているので、いざ歌おうとすると、歌詞が出てこなかったりするのだ。

お巡りさんに似た制服の「警歌官」が、至る所に立っていて、別の誰かと同じ歌を歌い出すと、さっと走り寄ってきて、イエローカードを掲げる。
歌が途切れても、さっと走り寄ってくる。
そのまま傍らで監視し、沈黙したまま3分が過ぎると、さっとレッドカードを掲げる。
そして即、町から強制退去させられるのだ。

前回は、スピッツを歌ったら、どの曲でもイエローカードだった。
「チェリー」「空も飛べるはず」「ロンビンソン」などのメジャーなヒット曲を避ければセーフになる可能性もあろうが、メジャーでない曲はそもそも歌詞がわからない。
スピッツに限らず、最近のヒット曲やスタンダードの名曲などは、悉くアウトになる可能性がある。
やってみなければわからないので、どんな曲でもとりあえず試してみる手はあるかもしれないが、前回まず選んだのは、小中学校の校歌と幼稚園の園歌だった。
これはいずれもセーフだった。
次に歌ったのは、学生時代フランス語の勉強のために覚えたシャンソンのいくつか。
これもどうやら、他に歌っている人はいないようだった。

前回うまくいったからといって、今回もうまくいくという保証はないが、同じ手でいくこともできたろう。
ただ、それではなんだかつまらないし、情けない気もした。
こんなところで発揮しても仕方がないプライドのようなものも、無くはなかった。

網島街道の向こう側が歌町だ。
横断歩道を渡って、コンビニ脇の道をまっすぐ行き、しばらくくねくね進むと、下別府さんの家に着く。
信号が青に変わる前に、今回のセットリストを考えなければなるまい。
よし、きょうは川本真琴さんで攻めてみることにしよう。

歩道を渡るとさっそく「愛の才能」を歌い始める。
コンビニの背後からすぐさま警歌官が飛んできて、イエローカードを掲げた。
知る人ぞ知る名曲だが、知っている人がそこら中にいるとは思えない。
これなら大丈夫だろうと踏んだのだが、やはりだめだったか。
すぐさま「やきそばパン」に切り替えて、早口で歌い始めると、警歌官はイエローカードを引っ込めて去っていった。

歩きながら「やきそばパン」を3回歌い終えると、試しに「1/2」を口ずさんでみた。
予想した通り、この曲は忽ちイエローカードを突き付けられた。
慌てて「DNA」に切り替えると、こちらはどうやらセーフだった。

「ブロッサム」「月の缶」「ポンタゴ」と順調に回して、「桜」を歌い始める。
これも順調に歌い進んでいったのだが、思いがけないことが起こった。
歌詞が出てこなくなってしまったのだ。
覚えているつもりになっていたのに、カラオケなど口に出す習慣がなかったからだろう。

途中でやめるのも、しかし、悔しかったので、苦し紛れにアドリブで歌い続ける。
あとからあとから、でたらめの歌詞がけっこう出てくる。
歌詞がでたらめでも、警歌官はやってこない。

そうか、この手があったか。
でたらめの「桜」を終えると、でたらめの歌を即興で歌ってみる。
大丈夫だ。
これでも通用するのだ。

以来僕は、下別府さんのところに通うのが億劫ではなくなった。
十八番は、習ったゾンカ語を好き勝手に並べた、でたらめの歌だ。

♪クズザンポー カディンチェ タシデレ ミンガチモ ロクジェーゲラ…

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