なぜ映画をつくるのか。なぜ”映画”なのか
1:映画とは
「映画」・・・高速度で連続撮影したフィルムを映写機で映写幕に連続投影した映像によって、形や動きを再現するもの。(wiki参照)
もともと被写体に当たる光の反射を焼き付けた画像の連続だった。
つまり「光」だった。
映画はドラマではないし、絵でもなけりゃ写真でもない。
映画は「光の連続」であって、マテリアルそのもの。
そうして作られた光の連続をつなぎ合わせて、星座みたいに大きな一つを作っていくのが「映画」である。
北極星を巻き込んで、19個の星をむすんで熊にするなんてものは、はっきり言って「無理矢理だなあ」と思ってしまうし、別に犬でも狸でも成立してしまう。単なるアソビの要素に過ぎない。
映画もそんなもので、離れすぎない位置に点と点を配置して、それを観客が勝手に繋ぎ合わせて全体を思考する。
本来の存在意義や理由や性質なんてものは誰にだってわかりゃしなくて、人間は仮定と仮説をたてることでしか居場所を得られなかった無力な存在であり、でもそんな無力な存在が居場所を得られたのは、「分かる分からない」ではなく、「面白い」でモチベーションのバトンを渡してきた、ある種の「低俗さ」「心の自由奔放さ」という心の優位性を使ってきたからで、そうして縋るしかないアソビの要素に素直になってもいいんじゃなかろうか。
2:本題
もともと僕は子供でした。家族や周りの言葉や感情が分かるようになって、幼稚園に入って「社会」に交わって、小学校ではそれが色濃くなって、中学校では「点数」を競う生存競争になりました。
不幸にも自分は社会的に生きるための生存戦略に乏しかったので、高校では軽い鬱になりました。
もう僕は子供になれないことを自覚して、心の優位性が失われたことを自覚して、身動きもとれない、何もかもが見えない状態に陥りました。
常に周りと比較して劣等感を抱いていました。
よくある思春期ですね。
でも、人間とはもともとそんな不幸な成長を遂げてしまう生き物で、もし子供に戻りたいのなら、子供を越えたいのなら、その不幸を許してこその「低俗さ」ではないのか?と諭してくれた人がいました。
僕は理屈は分かるが、やはりこの主観の呪いから解放されることはなくて、不幸なもんは不幸だし、”嫌だよ”と今でも思い続けてます。
自分が到達できない場所に到達しているその人に、ジェラシーすら抱いていましたが、憧れもありました。
であれば自分が憧れた「低俗さ」「心の自由奔放さ」を誰かに体験させて、そのロードムービィを与えたいと思いました。だから何かを”つくる”ことを選びました。そこから僕自身の為のヒントを得たいと思ってましたし、ダメでも同じ痛みを抱えるひとが増えるならそれでいいとも思ってました。
「映画」は、絵や静止物と比較して、観客に与える点の数が異常に多いです。心の優位性を知らず知らずのうちに自然と使う子供には、アートや絵の方が心の可動域を持て余すことなく扱えると思います。しかし社会に塗り固められた主観を捨てきれず、思考をほぐしきれない割に自己主張型の僕にとっては「映画」が作りやすいですし、何よりアート映画から商業映画まで、低俗な映画から上品な大人の映画まで存在していて、子供にはない大人の特権も「それはそれで悪くないな」と思います。
映画とは、自分の主観を忘れることなく、三人称視点で子供じみた視点も大人びた視点も切り替えることができる、自由なコンテンツだと感じます。
三人称視点での心の自由奔放さを鍛えながら、子供の視点を会得する日を夢見て映画を作っています。
自分はこの視点切り替え操作が可能な三人称視点のことを、人間の「幽霊性」と呼んでいます。
この話はまたいつか、「ベルリン・天使の詩」の映画についての話に兼ねて書き足していきます。