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失われたチャイムを探して

子供の頃は、一体何をしていたのだろうか?
朝起きて、学校に行って、5時のチャイムが鳴ったら家に帰って夕飯を食べる。ゲームかなんかを疲れるまでやったりしていたらもう寝る時間になって。

そういえば、子供の頃はチャイムが時間を教えてくれていた。
いつの間にか「チャイム」という言葉すらも使わなくなってしまった。これが大人になるということなのだろうか。

仕事をしている今は、始業の時間と昼ごはんと就業の時間くらいしか区切りはない。そもそもそれ自体も、厳密なモノではないし。
小学生の時のチャイムは、神に等しかったんじゃないだろうか。
チャイムがなると、席につかないといけないし、家に帰らないといけないし、掃除を始めるのも終わるのもチャイムに従っていた。「掃除が完了」することではなくて、チャイムがなることが掃除の完了だった。

どんな人間もチャイムに従って行動していた。それなのに、いつの間にかチャイムは失われてしまっていた。
そんな簡単に、世界を支配するような概念が失われるのだろうか。何か別のものに置き換わって、チャイムは今でも存在するのだろうか。

自分ではない別の何かに判断を任せるのは楽でいい。みんな、自分で自分のためのチャイムを作り出して、それを神としている気がする。
それだとなんのために生きているか分からなくなってしまうと思うんだけど。人間はみんな、チャイムに従って行動している、というような不気味な感覚に襲われる。
僕も何かチャイム的なものに支配されているのだろうか。

僕はできる限りチャイムを自分の中に持っておきたいと思う。
チャイムを取り戻すことで、チャイムの支配から逃れられる。
チャイムがなくなった世界で、チャイムを探す。何か面白い小説でも書けそうな気がしてくる。

お腹が空いたらご飯を食べて、本が読みたくなったら本を読んで、仕事をしたくなったら仕事をして・・・
そういう感覚がどんどん失われてしまって、気がついたら自動機械のようにご飯を食べて本を読んで仕事をしてしまいそうになる。
ちゃんとチャイムを鳴らさないといけない。

自分の中にチャイムがあるかどうか、よくよく考えながら生活をしてみようと思う。
チャイムが聞こえなくなったら、少し立ち止まって、耳を澄ませる必要があるかもしれない。
チャイムに耳を傾けることも、チャイムと一緒に失われてしまっている。5時のチャイムは1回だけじゃなくて2回なっていた記憶がある。これは気のせいだろうか。

チャイムがなっていることを信じたくなかったから、チャイムがなくなってしまったのかもしれない。

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ふなっち@Web Director/Writer/Essayist/Pastel Artist
誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。