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7月22日 相手の人生を導けなくて、祈る
人それぞれの違った生き方がある。様々な生い立ちがある。それは言葉にすると簡単だけど、理解することが難しいことの代表例だと思う。
基本的に人は皆、自分のこと以外に関心はないと思う。どこかで自分のことを噂されているのではないかと気に病むのは自分だけで、実際には噂されることは良くも悪くもないし、あったとしてもすぐに消費されて忘れられてしまうだろう。
僕はそう考えるようにしている。そうしないと、体力が持たないからだ。
電車で隣に座っていた人のことを、どれほど思い出せるだろうか。
つまり、皆他人の人生についての知見がなさすぎるのだ。恋人やパートナーができた時、上司や部下との関係の中で初めて相手の人生から逃げられずに直面することになるのではないか。友達なら関わり合いをコントロールして、引くも押すもある種自由だけど、そうじゃない関係が急に立ち現れる。
そんな時、参考になるのは自分の人生と、少ないサンプル数の他人との関わり合いだろう。
人が悩み、苦しみ、自分自身の人生を歩もうと懸命に生きている。そんな時にかけられる言葉を、僕たちは何か持ち合わせているだろうか。
いつも僕は相手の人生の前に立ち止まって固まってしまう。どんな言葉をかけても、それは相手とは全く関係ない、参考にならない、ビジネス書のようなものにしかならない。
その歩みは確かに自分をうまく運んでくれたかもしれない。それは間違っているとは思いたくないだろう。でも、あまりにも条件の違うある特定の相手に、それが意味あるものとして組み込んでもらえるかはよくわからない。
「それはそれでいいんじゃない?」という言葉は無責任だろうか。僕にはわからない。だけど、それしか書ける言葉ないこともある。
「好きにしたらいい」とも思う。それを言ったら相手はどう感じるだろうか。
相手のことをよく考えて、理解したいと思う。言語化も対話も諦めずに試みる。それでも、何か見えない隔たりを感じて、いつも頭が真っ白になって、全てがどうでも良くなってしまう。自分の人生に意味があると思い続けることも、体力がいることだ。
人に何かを教える、知識や技術ではなく、漠然とした何かを教えるということ、導くことは可能なのだろうか。そう思って、無理だとわかりながらも、導くための演技をし続けていくしかないのだろうか。
そこにはなにか、「信じる」というような祈りがあるような気がする。
最後は祈ることしかできないというのが、僕の思いだ。
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