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1月10日(テレワーク問題について考える)

テレワークで足りないと感じるのは、一体感みたいな熱量だと思う。
足りないのか、もともと僕だけが「ある」と感じていて、別に他の人からしたらないものだったのかはよくわからない。
落合陽一さんが「身体性」とか「祝祭性」と呼んでいるものがまさに当てはまると思う。

テレワークになって、何でもかんでも家でやるようになってしまった。
結論から言うと、テレワークはずっと続けていきたい。ただ、冷静になって考えてみると、そもそも持ち合わせている経済的資源が不足しているせいか、テレワークの良さを享受できていないと思う。
書いていて何とも恥ずかしい話だが、こういうタイプの人はいるのではないだろうか。
仕事場として持ち合わせているのはリビングか寝室のテーブルだけだ。しかも部屋の広さ的に、スペースも限られている。
オフィスの方が遥かにスペースも広いし、何しろ生活用品がないから意識が外に向くことがない。そもそも、毎朝カフェに行っているのは、家の中に集中できる環境がないからだ。そんなことで家で仕事を始めても、スイッチが入るまでに時間がかかってしまうから良くない。
寝室で仕事をすると、生活空間と仕事が接続しているような気がして気持ちが悪い。僕はそう言う切り替えには儀式を伴うタイプの人間だから、朝はシャワーを浴びないといけないし、1日を始めるには日記を書かないといけないし、仕事の日は仕事以外のことがあまり意識に上らなくなる。
頭の使い方も何となく切り替えがあって、ただでさえ理詰野郎と言われているのに、社会の外である自宅で論理100%を持ち出して大変になったこともある。

こう言う諸々のことも、そもそも都会に住むことをやめたり、仕事部屋を持ったり、タクシーや自家用車を使って感染リスクを下げる通勤をしたり、と言うことができれば解決しそうな気がしてくる。
経済的ハンディキャップのあることを改めて思い知らされてしまった。

そう。テレーワーク中は各々個人的な事情により、仕事との向き合い方が違うのだ。ある意味、オフィスという特殊な環境に集まって、オフィス的な場所でオフィス的なワークをしている間は、そういったことが意識に上ることはない。それはとても重要なことだったのかもしれない。
年収300万の平社員も、1000万円のプロフェッショナルも大体同じ机と椅子に座って同じ会議室で同じモニターを見て一緒に仕事をしていたのだ。

そういう環境に対する経済的格差を感じて、共同身体性みたいなものが不足してしまっているのではないだろうか。いくらMTGを増やしても、いくらチャットを快適にしても、コミュニケーションの問題が解決しないのなら、これも一つの考え方なのではないだろうか。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。