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事象と心象の交差点で、一本の糸にすがる

読む。観る。経験する。何かを感じる。表現したいと思う。

よし、文章を書く。いや書こうとする。

考える、考える、考える。出てこない、出てこない、出てこない、言葉。

そうだ、まずは納得できなくても書き切ることが重要らしい。とりあえずそれっぽい言葉で埋めよう。

………「とても心が動かされました。」

………「涙が止まりません。」

あああああ…!!違う違う違う…!!!!書きたかったのはこんなのじゃない。これで心が動かされる人なんていない。なにより、自分が。

幾度となく苦し紛れに旅立っていった言葉たち。でも、それならどんな言葉だったらよかったのか。

次は絶対もっと上手く書く。……やっぱり出てこない。嫌になる。いつの間にかマンガを読んでる。夜中の3時。寝る。振り出しに戻る。

心が動いたのは確かなのに、言葉にするとなぜこんなにも安っぽくなってしまうのだろう。その時そこにあった感動は、「感動」と書いた瞬間に掻き消える。

『読みたいことを、書けばいい。』

田中泰延さんが書かれた本のタイトルを見た時。なるほど!そう思った。自分が読みたいものを書く。これ以上無いほどシンプル。でもそれ故に残酷だ。読みたいものが書けないから、苦しい。

例えばテニスをしている時。「時速200kmのサーブが打ちたい。」ヘロヘロと相手コートへ向かうボールを目で追いながら、そんなことを思う。「スーパーなリターンでビッグサーバーの鼻をへし折りたい。」おじいちゃんサーブを棒立ちで見送りながら、そんなことも思う。やりたいことと出来ることは違う。

それでも、やっぱり書きたい。

誰かが代弁してくれるならそれで良い。映画や話題作なら、きっと少し待てば解決する。でも、一日に何十、何百冊と新しい作品が生まれる小説やマンガの世界なら。ほとんどの場合、「そう、それ!!」となる文章が見つかることはない。

むしろSNSを探せば、「うまく言語化できないこの気持ち」なんて呟きをよく見かける。それもある意味「そう、それ!!」だけど、その正体が知りたいのだ。つまり、書かねばならない。自分で。

事象と心象の交差点

本書では、ネット上で読まれるほとんどの文章とは「随筆」であり、それを事象と心象が交わったところに生まれる文章と定義する。

事象を見聞きして、それに対して思ったこと考えたことを書きたいし、また読みたいのである。
引用:『読みたいことを、書けばいい。』より

なるほど!また思う。事象と心象の交差点で生まれたもの。それがこの感覚の正体。でも、それが分かっただけでは言葉にならない。そこで自分が思ったこと考えたことが何なのか。誰よりも分かっているはずなのに、表せない。

RADWIMPSの初期の名曲に『愛し』という曲がある。「いとし」と書いて「かなし」。

当時の彼女と別れた日に知った曲だ。いやそんなことはどうでもいい。なぜか最近久しぶりに聴いた。もちろん、愛の歌だ。でも表現者の歌でもある。表現したい心の奥の何かへ向けたラブソング。

言葉は いつもその人を映したがってた
神様は なぜこんな近くに言葉を作ったの?
心は いつも言葉に隠れ黙ってた
神様は なぜこんな深くに心を作ったの?
引用:『愛し』RADWIMPS より

言葉と心には、恐ろしい程の距離がある。言葉はどこまでいっても取り繕っていて、心はいつも姿を見せてくれない。

いや、もはや距離ですらないかもしれない。次元…というよりは、なんというか、界が違う。天界と地獄界。言葉界と心界

事象と心象が交わった時、そこに波が生まれる。波紋が広がる。それを確かに感じる。だけどそのままではただそこに在るだけだ。心界で生まれたソレを文字にしたくて、言葉界からそっと糸と垂らす。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』もこんな感じだったろうか。天上から地獄に吊るされた糸に群がる罪人のように、無数の名もなき心の揺らめきが、形を成して外に出たがっている。その叫びを世界に届けるために。

でも実際に掬い上げられるのは、その中のほんのひと握り。いやほとんどの場合、何も救えなどしない。糸は途中でぷっつり途切れて音沙汰なく、目の前には白紙の原稿用紙、いやPC画面。確かに地獄だ。

調べたことを、書けばいい。でも。

本書が示す解決策は至ってシンプルだ。そもそも心、内面の吐露など必要ない。

ライターの考えなど全体の1%以下でよいし、その1%以下を伝えるためにあとの99%以上が要る
引用:『読みたいことを、書けばいい。』より
調べたことを並べれば、読む人が主役になれる。
引用:『読みたいことを、書けばいい。』より

一次資料をあたってとことん調べる。きっとそれが正しい。読者にとって、名もなき誰かの「感想文」など興味はない。知りたいのは作品やその周辺知識であって、プロとしてお金をもらって書く場合ならなおさらだ。

それでも。例えば新しいマンガを読んで、確かに心が動いた時。モヤモヤとした霞の遥か先から、ただ一人、自分のためだけに、この目に見えない心というやつを見つけてあげたい。その時感じた何か、そこに至った理由を探して言葉にしてあげたい。

歩道橋で誰かに売る詩集ですらなく、最初から三番煎じのような薄っぺらいお茶を、自分のために煮詰めるのだ。

文章を書くと、文章を書けないことがわかる。もう一度書くと、やっぱり書けないことがわかる。哀しい。

文章を読み直すと、もっとうまく書けたはずだと毎回思う。でもたまに、ああ、意外と面白く書けてるなと思えることもある。嬉しい。

そんな哀しさと嬉しさがごちゃまぜになった愛おしき感情を、愛(かな)しいと言うのかもしれない。

事象と心象の交差点に向かって糸を垂らし、必死に言葉を探す。ボウズの日々に嫌気がさし、放り投げる事もある。それでも、次はもう少しうまくいくかもしれない。釈迦の気まぐれだったカンダタと違って、糸を垂らすのは自分自身。何度でもやり直せる。

心界に揺らめく名もなき無数の何かたち。次は形にしてあげられるだろうか。


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