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「情報の選択」には「責任」がある

本やニュースやSNSなどから、世の中に溢れる様々な情報を、僕たちは日々選択しながら生きている。

どの情報が正しいのか、という事も大事なのだが、その前に僕は「自分で選んだ情報に基づき行動したなら、その責任は自分にある」という事を前提に置くべきだと思ってる。

僕の肌感覚として、こんな事を言う人が多いように思う。

「○○からこう言われたからこうした」
「ネットにこう書いてたからこうした」
「ニュースでこう言ってたからこうした」

特に、その情報を基に行動して上手くいかなかった人ほどこんなセリフをよく使う。
さも、「自分が失敗したのは、自分にそんな情報を与えたメディアやネットのせいだ」とでも言わんばかりだ。

そういう人たちは「その情報を選択したのは自分自身だ」という認識がすっぽり抜け落ちていると思う。
たとえ失敗したとしても、自分にはその責任は無く、自分にその情報を与えたものが悪い、と考えているようだ。
そして、情報の選択によって不利益を被るのが自分だけならまだ良いのだが、他人に不利益を与えたり迷惑をかけた時にも同じように考えてしまう。

最近よくあるのが、誤った情報がSNSで拡散されるケース。
おそらく、情報を拡散させた人は「自分は情報を広げただけで悪いのはその情報を最初に発信した人間だ」と考えているのだと思う。
しかし、「情報の拡散」も立派な行為・行動だ。選択する情報が正しいか誤っているかというのはさておき、その情報を拡散させる事で誰かに影響を与えるかもしれない、それは自分の「拡散」という行為を発端に起こるかもしれない、そして、その責任は「拡散」という行為を行った自分に責任がある、という意識を持てば安易に「情報の拡散」という行動はとらないだろう。

情報に基づいた行為や行動をする場合、その責任は他の誰でもない情報を選択した自分である、という意識を持てば、情報の選択に慎重になる事が出来て、自分はもちろん他の人に対しても無駄な不利益を与える事が少なくなるだろう。


ちなみに、「情報の選択には責任がある」という考えは、学生の頃に「サンキュー・スモーキング」という映画を観たときに生まれた考えだ。
情報社会を生きていく上で考えさせられる事が多い映画である。
オススメの映画なのでぜひご覧になっていただきたい。

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