凄惨な事件を目の当たりにしたあなたは、すぐに動き出せるか?それとも傍観者となるか?
宇都宮線暴行事件は凄惨な事件だった。
電車内でタバコを吸っていた男を高校生が注意したところ、返り討ちにされてしまったこの事件。
巷では、加害者に対して怒りが収まらない人や高校生の勇気を讃える人など反応は様々だが、そんな中で僕が気になったのはこんな意見。
「周りにいる人たちが止めれば高校生への被害を抑えられたのに」
「周りの大人は何をやってたんだ。高校生を見捨てて、情けない」
僕は、周りで暴行を止めようとせずに傍観していた乗客たちに対する批判が目についた。
たしかに、男1人であれば他の乗客が力を合わせれば取り押さえる事は可能だろう。
しかし、いざ自分がその乗客の立場になって時に、本当に自分は高校生を助けるために動き出す事が出来るのか?
正直に言おう。僕はその現場に居合わせたとして、高校生を助けるために行動する事は出来ない。
〜周りにたくさん人がいるから助けない?〜
この事件を知った時に、僕は以前読んだ「影響力の武器」で紹介されたとある事件の事を思い出した。
1964年、ニューヨーク市のクイーンズ区である殺人事件が発生した。20代後半の女性が深夜、帰宅途中、自宅の前で暴漢に襲われて殺害された。この殺人事件には驚くべき事実があり、大勢の人の目の前で起きていたにも関わらず誰も警察に通報しなかったのだ。延々と続く騒がしさと苦しみに満ちた声が35分にもわたって続いた事件にも関わらず、38人のアパートの隣人たちは窓際から見ているだけで誰も警察に電話をかけることすらしなかったのである。
後に、事件の詳細を知った人は衝撃と困惑を覚えた。38人の隣人たちがなぜ何もせずにいられたのか?当の本人たちは口々に「わからない」と答えたという。この事件についてメディアは「巨大な都市が人を非人間化させた」「<冷たい社会>が生まれ、人々は何も感じず無関心でいられるのだ」などと社会的な問題として取り上げられた。
しかし、後にとある2人の心理学者が38人の隣人たちが傍観していた理由について、社会心理学的な説明をした。
それは「多くの観察者がいた"から"、誰も助けなかった」というものである。
この説明の理由は2つある。
まず一つ目は、助けられそうな人がほかに何人かいれば、一人ひとりの個人的な責任は少なくなるから、というものだ。「たぶん誰かが助けるだろう」とみんなが考えてしまうので、結局誰も助けない、という結果になってしまう。
そして、ふたつ目は、心理学用語でいうところの集合的無知の存在である。
緊急事態が緊急事態であるというのはすぐさま分かるわけではない。周囲の人びとの反応を見回して手がかりを求めて、ほかの目撃者がどのように反応しているかによって、目の前のことが緊急事態なのかどうかを知ろうとするのが人の自然な傾向である。しかし、これには落とし穴があり、その出来事を見ている他の人々も同じように周りの反応を見て判断している事になる。したがって、全員が互いを見て、誰も慌てた様子や何らアクションを起こさないでいる様子を見ると、目の前の出来事が緊急事態だと認識しないのである。これこそが集合的無知の状態であり、人々は「誰も関心を払っていないのだから、悪い事は何も起こっていないのだ」と判断してしまう。
僕の中では、この二つ目の理由が、今回の宇都宮線暴行事件の状況に合致した。
自分が電車に乗っている時のことを想像してみよう。常に周りの様子を伺いながら電車に乗る人はほとんどいないだろう。多くの人が、スマホを見たり本を読んだり音楽を聞いたりしている筈だ。
そんな中、急に車内で怒鳴り声がする。
さあ、果たして即座に状況を理解することなど出来るだろうか?
今回の事件の場合、乗客が異変に気付いたのはおそらく加害者の男の怒鳴り声や暴行の音が聞こえてきた時だろう(電車内でタバコを吸うような男には普通は視線すら送らない。ひたすらそちらを気にしないようにするのが普通の反応だと思う)。その瞬間に「勇気ある高校生が理不尽な男に暴行を加えられている」と即座に状況を把握する事は本当に出来るのだろうか?異変の前にあった高校生の勇気ある行動を見ていなかった人たちが、すぐに「高校生が危ない!」と反応する事は本当に出来るのだろうか?
僕は自信がない。その場に居合わせて即座に「男が加害者で高校生は被害者だ」と判断出来るとは思えない。「なんか、仲間同士で揉めてんのかな?」と、高校生をその男の仲間だとすら思ってしまう可能性もある。
「乗客で暴行を止めようとしたものは誰一人いなかった」ことに対して、乗客たちを冷たい人間だと言ってしまうのは少し酷な気がする。乗客たちは目の前で起こっていることが緊急事態だと気づくことが出来なかった。そして、全員が同じように緊急事態であると判断できず、誰もアクションを起こせない。さらに、誰も反応しないことが、「目の前のことは緊急事態ではない」という解釈を強くしてしまったのだ、と僕は考えてる。
〜気づいた自分が起こせる行動は〜
さて、だからと言って「今回の宇都宮線暴行事件は、乗客が誰も気付いていなかったんだから仕方ない」という結論を出す訳ではない。
もしかしたら、乗客の中には一連の流れを見ていて、目の前の状況を正確に判断出来た人がいたかもしれない。
しかし、仮に自分がその立場だったとすると、どうだろう。高校生を助けに行けるか?
ここで先ほどの一つ目の理由がネックになる。
「助けられそうな人がほかに何人かいれば、一人ひとりの個人的な責任は少なくなる」
周りの反応を見る限り、緊急事態だと気付いているのは自分だけだ。でも、自分1人で男に立ち向かっていく勇気が出ない。それに、自分が行ったところで男を抑えられるかわからないし、自分もケガをするかもしれない。周りが何もしないんだから、自分も危険な目にわざわざ合わずに傍観した方が自分の身のためだ。
こんな風に考えてしまうのではないだろうか。
では、自分だけが目の前の出来事が緊急事態だと気づいた時、どのように行動すればいいのか?
その答えも「影響力の武器」に書かれていた。
答えは、群衆から1人の人間を分離する、ということである。
1人で立ち向かえないなら、周りを巻き込んでしまえばいい。
具体的には、乗客の誰かに「あの高校生は被害者です。あの男を取り押さえたいので手伝ってもらえませんか?」と声をかけるのだ。そうすることで、声をかけられた人の中で状況の不確かさが取り除かれ、やるべき事に迷いがなくなる。目の前の状況と責任に関する不確かさを低減させるのだ。
1人で難しければ何人かに声を掛ければいい。重要なのは「誰か一緒に手伝ってください」と無作為に声かけするのではなく、「そこのブルーのジャケットの人!」と特定の人を見つめ話しかけることだ。
これなら腕っぷしに自信のない僕でも、行動に起こすことは可能だろう。
〜2度とこんな事件が起こらないように〜
というわけで、今回の宇都宮線暴行事件から、僕なりに考えた事を書いてみた。
普段はニュースや事件について記事を書かない(というか、あまり書きたくない)のだが、今回の事件については、どうしても何か言葉にしないとモヤモヤしてしまうところがあり、このような長文になってしまった。
ただの平凡な男が書いた駄文ではあるが、同じような事件が起こらないように、周りの人が傍観者になってしまわないように、参考にしていただければ幸いである。
<参考書籍>