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元は私立学校?な大学 その3


前回は


私塾が母体?の山口大学

 私塾が母体となった国立大学の大関級としては山口大学でしょうか。

山口大学はその沿革で、

山口大学は、長州藩士「上田鳳陽」によって、1815年に創設された私塾「山口講堂」を起源とし、明治・大正期の学制を経て、1949年に、地域における高等教育および学問研究の中核たる新制大学として創設されました。


と述べています。とはいえ、私塾ながらも藩主から特別な待遇を受けていた事から、実質的に毛利家の保護下にあり、純粋な私塾とは言い難い面もあります。実際、藩庁の山口移転に伴い山口明倫館に改称され藩校化され、その後も明治新政府の長州閥を維持する教育機関として、特別な学校として存在し続ける事になります。

藩閥政治の源泉

 具体的には、藩校を中学校に改めた時に尋常科と高等科に分け、高等科はその後の帝国大学に繋がる各種の高等教育機関への人材供給の役割を担います。

 帝国大学が成立して、大学予科の部門が新たに高等中学校(後の旧制高等学校)の制度に改められると、中学校の高等科を、正式な大学予科である山口高等中学校として政府に移管して、他の県に先んじて帝国大学への人材供給を担わせます。似た例としては、薩摩藩の藩校の造士館で、これも西南戦争での空白期間があるものの、長州と同じ様に高等中学校になっています。やはり明治期の長州と薩摩の権力は絶大だったのでしょう。

個性的ではなかった理由

 山口県下の国立(官立)等の高等教育機関自体が、藩や県、政府の影響を受けた学校が多く、旧制山口高等学校の起源が私塾とはいえ、横綱級の2校と比較すると、学校を通貫する特徴的な個性は見られません。そもそも、政府の都合で明治38年に旧制山口高等学校は、山口高等商業学校に改組されてしまっています。その為に、正当な直系は経済学部の母体となった、旧制山口経済専門学校(山口高等商業学校を改称)の方にあります。大学予科のある旧制山口高等学校が再興される大正8年まで、13年間の空白がある事が、全国でも3番目に出来た歴史のある旧制高等学校にもかかわらず、個性を希薄化させている原因かと思われます。そんな複雑なお家事情もあり、現在の山口大学も、母体となった高等教育機関を学部としている以外には、平成24年に農学部から獣医学部を分離する以外には大きな変化はありませんでした。

創設200年での豹変

 私塾からの創基200年を記念する平成27年から平成28年にかけて突然豹変したかのように学部と大学院の大規模な改組が行われます。学部については既存の学部の学科等の整理と国際総合科学部の創設、大学院については理系学部の大学院を解体して、医学系の一部以外は大学院創成科学研究科に統合しました。眠れる獅子がやっと起き上がった様です。今回纏められなかった文系の大学院についても、恐らく統合が検討されているかと思います。

創基200年は特設サイトが作られています。

歴史に関しては公式ブックレットが作られています。

 国立大学らしい保守的な山口大学も、創基200年で変化を始めた様です。起源だけで言えば横綱級の歴史を持っていますが、今までの保守性から、あえて今回は大関に位置付けておきたいと思います。私塾由来の大学でも色々ある事が分かります。

次回は



 

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たこま
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