橋本治と巨人の星5

いきなりだが仲代達矢の話である。橋本治が岩波書店からでていたなんとかいう雑誌に連載していたエッセイのなかで、俳優・仲代達矢をテーマにした一編があった。
橋本の言によると、仲代達矢とは「力ある理想の近代」の象徴であるという。”力ある”という表現の意味するところは、強い意志と行動力を兼ね備えた、頭でっかちではないというくらいの意味合いであると思われる。その理想の近代が近頃(といっても三十年くらい前かもしれないが)あやうくなってきたので、これを総括する意味を込めて彼に演じてもらいたい役柄がある、というのだが、それがなんと、かの星一徹その人だというのだから驚きである。
星一徹はみずからの理想において挫折を経験し、いったんは息子に理想の達成を託すのだが、息子を見守るという役柄に飽き足らず、再び現場に復帰して息子の敵にまわる。けしてみずからの老いを認められず、永遠の若さに執着する姿がすなわち「近代」のなれの果ての結末だというのであるから、なんとも残酷な話ではある。
これと並行して橋本が提示しているもう一つの役柄が、これもなんとも凄まじいものだが、あしたのジョーのラスボスであるホセメンドーサだ。戦いのはてにあらわれた最後に倒すべき相手が、妻と子供たちに囲まれた、暖かく豊かな家庭といった、すべてに恵まれたマイホームパパであるという皮肉が
これもまた理想の近代のその先のある種の象徴であるということだ。
あしたのジョーはさておき、橋本が巨人の星を最後まできちんと読み込んでいることは明らかである。凡百の書き手が巨人の星について語るときの合言葉がいまだに「父ちゃんおれはやるぜ」であることを鑑みれば、この作品の後半部分がほとんど父と子の対決に費やされていることを焦点化しているだけでも、橋本の読みは正しい。
とはいいながら、巨人の星の作品全体を見据えた作品論は、ついに彼によって書かれることはなかった。ここまで見てきたいくつかの視点からして、
この作品は彼にとってけしてなんの興味もない対象ではなかったが、かといって一大論文をものにするほどの興味をひくものではなかったのは個人的にはやや残念ではある。
わたしのこの連作も次回で最後となるが、それは絵描きとしての橋本治の本領発揮となるものである。最終回につづく。

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