秋瀬広人

秋瀬広人

マガジン

  • アバウト巨人の星

    巨人の星という作品自体についての文章をまとめました。

  • 橋本治と巨人の星

    あんまり関係あるとも思えない橋本治と巨人の星の関係について

最近の記事

岩明均・ヒストリエ雑感

 ヒストリエの単行本がなんと五年ぶりに発売になるそうだ。愛読者のかたがたは、この刊行ペースには色々と思うところもあるだろうが、まずはこの発売を喜びたい。私はこの作者の単行本化された作品には全て目を通しているが、コミックモーニングに連載していた風子のいる店というマンガを本屋の店先で立ち読みしていたころからかれこれ40年になるかと思うと、いささかの感慨がある。  というわけで、もはや何度めかわからないが、ヒストリエ11巻までを頭から読み直してみた。やはり何度読んでも抜群に面白いの

    • 大瀧詠一ファーストアルバム・CDにおけるテイク違い

       さきごろ大瀧詠一のファーストアルバム50周年版が発売されたようである。内容をみるに新たなボーナストラックは数曲しかなく、曲順もかなり変わっているようだ。音質は当然向上しているらしいが、どうも全体的にさほど評判は高くないようだ。そもそも作者本人が監修しているわけではない点が気になるところである。    もともとこれ以前に出されたCDにおいても、たんにリマスターしたというだけでなく、微妙に異なるテイクが収録されているものが2曲ほどある。それを説明するために、以下オリジナルアナロ

      • 橋本治・作家への道

         小説家になるような人は、たいていが子供の頃から本が大好きで本ばかり読んでいるうちに自分でもなにか書き出すようになる、というのがほとんどであろう。橋本治の場合はまったく違う。なにしろ高校生のころは全部で17冊くらいしか読んだことがなかったと書いているくらいである。かれはもともと映画マニアで、絵描き志望であった。それがなにゆえにあれほどの厖大な著作を残す作家となっていったのか。そこにはなんとも奇妙としか言いようのない経緯があったのである。    かれが高校生のときの話である。オ

        • 星飛雄馬の“青春”

             巨人の星第11巻において花形・左門に続いて登場する第三のライバルであるアームストロング・オズマは、単に野球における敵対関係のみならず、主人公星飛雄馬の人生そのもの、かれの実存そのものに大いなる疑問を投げかける存在として極めて重要なキャラクターである。オズマとの試合での対決ではかろうじて勝利をおさめたものの、精神力の限界に至った飛雄馬は試合終了と同時に昏倒し、入院することとなる。その入院先に、雑誌社の企画で二人の記者とともに訪れてきたオズマとの対話で、飛雄馬は自己の存立基

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        • アバウト巨人の星
          3本
        • 橋本治と巨人の星
          7本

        記事

          打倒消える魔球・星一徹の「失敗」

           巨人の星という作品において、とくに後半の部分では3つの大リーグボールと呼ばれる変化球をめぐる攻防がストーリー展開の大きな柱となっている。これを分析するだけでいろいろと面白いことがわかるのだが、今回述べるのはある失敗についてである。もしも消える魔球なるものがなんなのか知らずにこの文章をお読みになるかたがいたとしたら、地面すれすれにボールが飛んでいくために土埃が舞い上がって、それでボールが消えたように見える、程度の認識で大丈夫です。実際にはその何倍も複雑な理屈が付けられているの

          打倒消える魔球・星一徹の「失敗」

          ザ・ムーンと民主主義

           現代日本において、多数決こそが民主主義の要諦であるとの考えは、きわめて根強い。どれほど間違った選択であろうと、それをより多くの人が支持したならば、それこそが民主主義に則った唯一の正しさである、との考えを、それこそ過半数の日本人が肯定しているように見受けられる。とにかく決を採ってしまえ、その結果についてはここにいる全員が無条件で従うべきであるというわけだ。少数意見の尊重、熟議により議論を深めていくことこそが肝要であると説く人の意見はなかなか容れられることはない。たしかに、議論

          ザ・ムーンと民主主義

          大リーグボールとは何だったのか

           巨人の星という作品において展開の要となるのが、大リーグボールと呼ばれる変化球群である。昨今のリアル志向のスポーツマンガと違って、かつてのマンガにおいては、いかに荒唐無稽の誹りを受けようとも、この種のいわゆる必殺技と呼ばれるギミックはきわめて重要な位置を占めていた。七十年代くらいまでは、こういった趣向はほとんど必然とまで思われていた。したがって大リーグボールも、いくつもあるそのようなギミックの一例でしかないと考える人も多いだろう。ところがこの三つの大リーグボールは、それら亜種

          大リーグボールとは何だったのか

          ビビルマン不遇明

           永井豪作「あばしり一家」には、仮面ライダーや宇宙猿人ゴリなど当時の人気作をネタにしたパロディがいくつか描かれているのだが、その白眉といえるのが、作者本人が同時進行させていた「デビルマン」のパロディ「ビビルマン」である。よく知られていることだが、デビルマンという作品はテレビアニメ版と雑誌連載版ではまったく設定が異なっていて、キャラクターの名前こそ同一だが、いっそ別作品と言ってしまったほうがわかりやすい程、印象が異なっている。そしてこのビビルマンは、デザイン的にはテレビ版の方を

          ビビルマン不遇明

          ジョンとポール問題を敷衍する

          これは、とある有名なポップス評論家の話である。かつて彼が知り合いにこう尋ねられたという。「ジョンレノンとポールマッカートニー、どっちが好き?」彼は答える。「ぼくはポールのほうが好き」すると相手は「へえー、ポールのほうが好きなんだー。ふーん。」相手の反応には、明らかに、軽蔑とまではいわないが、こちらの好み、感性をいくぶん見下すニュアンスが込められていたという。 この評論家氏はどう思ったか? 穏健派の彼は「おれはオマエの十倍ジョンのことが好きだ!だが、ポールのことがそれ以上に好き

          ジョンとポール問題を敷衍する

          昭和歌謡のタイトル

          歌のタイトルは覚えやすいほうがいいに決まっている。レコード屋に買いに行くときに店員さんにそのタイトルを言えばすぐに通じるほうが、売れ行きもあがるだろう。 典型的な例を挙げるならば、レコード大賞をとった水原弘の「黒い花びら」である。なにしろこの曲の歌いだしが「くーろーいーい花びら」なのである。まちがいようがない。 ところがある種の歌については、曲を最後まで聞かないと、なんというタイトルなのかがわからないしくみになっている。もっと言えば、最後まで聞いてもついにタイトルそのものが曲

          昭和歌謡のタイトル

          たくさんの人がおなじ年に

          2019年に橋本治が亡くなって、同じ年に吾妻ひでおも亡くなっている。橋本が亡くなってからほぼ一年後に、雑誌ぱふで橋本と親交のあったまついなつきも亡くなっている。もちろん単なる偶然であるのだろうが、遠くからただ眺めていただけの人間からすると、なにかしらの因縁めいたものを勝手に感じてしまう。 みなもと太郎・さいとうたかを・白土三平といった超ビッグネームが相次いで鬼籍に入ったのは、言うまでもなく偶然でしかないのだが、やはりありふれた言い方をすれば一つの時代の終わりという感をまぬか

          たくさんの人がおなじ年に

          橋本治と巨人の星・最終回

          かつて広告批評という雑誌があった。その名のとおりさまざまなメディアにあらわれるさまざまな形の広告について紹介したり批評したり、という形をとりながら、毎月の特集は文化・社会・政治などなど極めて刺激的なトピックをあつかう、充実した雑誌であった。そしてこの雑誌の巻頭で毎回社会時評・文化時評を数ページにわたって書き続けていたのが、ほかならぬ橋本治であった。広告批評の顔といっても過言ではなかった。 橋本が死去した際、この雑誌の中心人物であった天野氏・島森氏などがすでに鬼籍に入っていたた

          橋本治と巨人の星・最終回

          橋本治と巨人の星5

          いきなりだが仲代達矢の話である。橋本治が岩波書店からでていたなんとかいう雑誌に連載していたエッセイのなかで、俳優・仲代達矢をテーマにした一編があった。 橋本の言によると、仲代達矢とは「力ある理想の近代」の象徴であるという。”力ある”という表現の意味するところは、強い意志と行動力を兼ね備えた、頭でっかちではないというくらいの意味合いであると思われる。その理想の近代が近頃(といっても三十年くらい前かもしれないが)あやうくなってきたので、これを総括する意味を込めて彼に演じてもらいた

          橋本治と巨人の星5

          橋本治と巨人の星4

          橋本治の著作ばかりを追いかけていたとはいえ、さすがにすべての文章を把握しているわけではないのではっきりと断定はできないが、90年代以降、 彼がモチーフとしてマンガ作品をとりあげることは、ほとんどなくなっていったようである。だから80年代後半に書かれたバタアシ金魚についての論考は、橋本マンガ評論の再末期に属するものと考えられる。        この作品はヤングマガジンに掲載されたものであって、少年マンガというカテゴリーからはやや外れたところにあるのかも知れないが、橋本はこの作品

          橋本治と巨人の星4

          橋本治と巨人の星3

          ”よくない文章ドク本”という著作は、たしか1982年ごろに発売されたエッセイ集である。数年後に文庫化されたとき、内容にはさほど変化がなかったので購入することはなかったのだが、じつはそのわずかな変化に巨人の星がかかわっていたのだ。はっきりと断定はできないが、たしか週刊宝石に掲載されたいくつかのマンガに関する小エッセイが新たに収録されており、その中の一本に巨人の星への言及がある(ちなみにほかのひとつがひさうちみちおに関するエッセイで、その論考を敷衍すると現代日本に関する鋭い分析が

          橋本治と巨人の星3

          橋本治と巨人の星2

          ”花咲く乙女たちのキンピラゴボウ”という著作は橋本治の処女評論集であり、一般には現代マンガ評論のなかでも重要な位置を占めるものとされている。 論考の対象となっているのは多くが少女マンガであるため、少女マンガ評論集のひとつと考えられているのだが、作者本人の言によると、これは少女ひいては女性の意識というものを解明したものであって、少女マンガ評論集なんてものでは”ゼーンゼンない”そうである。それゆえなのか、下巻になると少女マンガ以外に関する論考が頻出するようになる。多くの紙幅が割か

          橋本治と巨人の星2