ザ・ムーンと民主主義

 現代日本において、多数決こそが民主主義の要諦であるとの考えは、きわめて根強い。どれほど間違った選択であろうと、それをより多くの人が支持したならば、それこそが民主主義に則った唯一の正しさである、との考えを、それこそ過半数の日本人が肯定しているように見受けられる。とにかく決を採ってしまえ、その結果についてはここにいる全員が無条件で従うべきであるというわけだ。少数意見の尊重、熟議により議論を深めていくことこそが肝要であると説く人の意見はなかなか容れられることはない。たしかに、議論を尽くした果ての最終的な決定は、多数決で決めるしかないのかもしれない。だが、そこに至るまでの過程にさまざまな錯誤が生じているとする人々も、また存在していることも事実である。

ジョージ秋山作「ザ・ムーン」という作品を考えるとき、民主主義というキーワードは、ひとつ面白い考えを示唆してくれる。巨大ロボットを操る少年たちが悪と戦う、という枠組みだけをみれば、特異な点はなさそうに思える。しかしながらこのロボットを動かすには、9人の少年少女たちの意思を統一することが必要になる。9人のばらばらの考えを持った子供たちがひとつの意志に統一された時に初めてザ・ムーンはその強大な力を発揮するのだ。ある意味このシステムはまどろっこしい。9人がその場にそろわなければ動かせないし、その上で意思統一する必要がある。しかも敵側からすれば、たった一人を拉致するなりなんなりしてしまえば、発動条件を抑えてしまえるのである。

なぜこのようなシステムが採用されたか。ザ・ムーンの持っている力が巨大すぎるからである。一人や二人の考えでこのとてつもない力が使えるとすると、安全保障的な意味でも極めて危険である。主人公ひとりの考えがいかに正しくとも、人間である以上過ちはあり得る。9人という、いささか多すぎると思われるくらいの安全弁を設けて、初めてこのパワーを使用することが容認されうるのだ。

ここで非常に興味深いのは、なぜここで先ほど述べた俗流民主主義が採用されなかったのかということである。どういうことか。一般に信じられている民主主義なら、9人のうち5人が意思統一すれば、発動条件はクリアできるはずではないか。過半数の5人さえ押さえてしまえば、あとはやりたい放題。なぜこの「民主的」システムがだめか。簡単な話で、のこりの4人が頑強に反対しているからである。この強い反対意見を説き伏せるだけの説得力がなければ、とうていこの巨大な力を使うことは許されない。それほどにこの「力」は強大なのだ。全会一致の賛成がなければ、この暴力装置の発動を許可することはできない。考えるに、これはアメリカの陪審員制度と同じである。

巨大な力を揮うためには、正当な手続きが必要。当たり前とも言えるこのような思想を物語の前提として組み込んだ「ザ・ムーン」という作品は、発表後半世紀を経たいまでも、当時は少年であった読者の心に強く印象を残しているのである。

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