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映画『ブルータリスト』とハンガリー

 ハンガリーで日本人女性が元夫からのDV被害を現地の日本大使館に相談していたことが最近ニュースで取り上げられていた。岩屋外務大臣は、大使館の対応に問題はなかったとしているが、この手の問題の対応の難しさを改めて感じたところである。
 さて、そのようなニュースの関係で、ここ最近「ハンガリー」という語をメディアで目にする機会が俄かに増えた。
 ハンガリーは、東欧というか中欧というか、ヨーロッパでは微妙な位置に存在しているが、過去にソヴィエト連邦の影響の下、社会主義陣営にあったことから、イメージとしては東欧である。しかし、私たち日本人にとって、ヨーロッパの国々の中では身近な国ではないことは間違いないだろう。
 来たる2月21日からは、第二次世界大戦下のホロコーストを生き延び、アメリカへと渡ったハンガリー系ユダヤ人建築家の半生を描いた話題作『ブルータリスト』の日本での上映が各地で始まる。映画ではハンガリー語も適宜使用されているそうで、以前少しだけハンガリー語を学んでいた私としては興味をそそられるところである。

難解と言われる言語

 ハンガリー語は、ポーランド語、フィンランド語と並び、ヨーロッパの主たる言語の中で特に難解な言語とされている。ただ、私の思うところでは、それは絶対的な難しさというよりも、他のヨーロッパの主たる言語を母語とする人々にとって難しいと感じられるということではないかと思っている。勿論、絶対的な難しさもある程度はあるのだろう。動詞の活用について、ハンガリー語では主語の人称、時制、態等により複雑に分かれ、動詞1つ当たりに342個もの活用形が存在する。
 よく知られているように、ハンガリー語とフィンランド語(エストニア語もだが)は、他のヨーロッパの主たる言語がインド・ヨーロッパ語族に属するのに対し、全く別系統のウラル語族に属する。そのため、インド・ヨーロッパ語族の言語の話者からすると、文法や語彙があまりに違いすぎて習得に困難さを感じるのは当然のことであろう(とはいえ、ハンガリー語も、その歴史の中で周囲のヨーロッパ諸言語の影響を受け、それらの言語の語彙から借用している単語もそれなりにある。また、私の推測では、ハンガリー語に定冠詞/不定冠詞の別があるのはゲルマン諸語からの影響があるのではないかと考えられるところではあるが、専門家ではないため詳しくは分からない。)。
 ハンガリー語は、ヨーロッパの中央付近にありながら、周囲の言語とは基本的に異なっており(とはいえ、中世において、時の国王イシュトヴァーン1世が国教としてカトリックを受け入れた関係もあり、現在のハンガリー語においてはラテン文字(いわゆるローマ字)が使用されてはいる。これは、同じようにカトリックを受容したポーランドにおいても同様である。)、系統的に最も近い言語であると推測されるシベリアの少数民族の言語との間でさえ、語彙も文法も全く異なるため、双方の話者の間では意思疎通は不可能とのことである。歴史的に様々な政治的勢力が入り乱れてきたヨーロッパの中央付近にあって、この孤高の言語が屹立していることは大変面白く感じられる。
 因みに、ハンガリーの民族はよくフン族をルーツとすると間違って言われることもあるが('Hungary' の 'Hun' の部分に着目してのことだろう。)、正確には遊牧民族のマジャール(マヂャール)人がそのルーツである。マジャール人は元々ウラル山脈の辺りが発祥であり、ハンガリー語がウラル語族に属することは、そのことに理由がある。
 なお、そのような中で、先述の3つの難解な言語(ハンガリー語、ポーランド語及びフィンランド語)において、ポーランド語だけはインド・ヨーロッパ語族に属していることを考えると、私の仮説(絶対的な難しさというよりも、他のヨーロッパの主たる言語を母語とする人々にとって難しいと感じられるということではないかという考え)も幾分か揺らぐのかもしれない。私の学んだ感触では、確かにポーランド語はかなり難しい。文法や語彙はウクライナ語にそれなりに似ているのだが、子音の使い分けが私たち日本人にとってはかなり難しいのである(ウクライナ語も子音の使い分けは細かいのだが、イメージとしてはポーランド語のほうが手強い感じがした。)。名詞の性の使い分け(男性/中性/女性)や、複雑な格変化は他のスラヴ諸語と同様だが、複数形において「その複数の中に人間の男性が含まれるか否か」の使い分けがあるのがポーランド語の1つの特徴である。なので、例えば、空腹か否かを尋ねるのに英語では 'Are you hungry?' だけで済むところ、ポーランド語では、相手が男性か女性か、さらに、複数の場合は男性を1人でも含むか否かで、動詞や形容詞が変わってくるのである(ちなみに、ドイツ語等と同様に、敬称で呼ぶかどうかという区別もある。)。ただ、他のスラヴ諸語の多くと同様に、冠詞がないことは学習するうえではありがたい。また、ロシア語のようなアクセントの移動(ロシア語ではアクセントの有無で母音が変わるうえ、活用や格変化により、アクセントが不規則に移動することがある。これは、ロシア語学習で心が折れるとされる複雑な格変化以上に、ロシア語学習者に苦戦を強いるものかもしれない。)がないため、ロシア語とポーランド語のどちらが難しく感じられるかというと、私としては一概に言い難いところである。
 おっと、ポーランド語についての話に聊か字数を割き過ぎてしまった。本稿の主役はハンガリーである。

ハンガリー系ユダヤ人の不思議

 ところで、2023年にmRNAの研究で生理学・医学賞を受賞したカリコー・カタリン博士が記憶に新しいところであるが、ハンガリー出身者の人口当たりノーベル賞受賞者数は突出して高い。就中、物理学や化学、数学等の理数系分野におけるハンガリー出身の学者の貢献には、著しいものがある(なお、ルービックキューブで知られるルビク・エルネーもハンガリー出身であるほか、チェスの強豪プレイヤーにもハンガリー出身者がそこそこ多いようである。)。
 そのことと関係があるのかないのか、ハンガリー語学習のテキスト(勿論、日本語話者向けのもの)は、結構序盤の段階で1から1,000ぐらいまでの数詞を学習させられたりする内容のものが目立つような気がする。わが国におけるハンガリー語教本の嚆矢の1つと目される今岡十一郎の『ハンガリー語四週間』(大学書林)では、最初の課で 'Egy meg egy az kettő.'(エジュ・メグ・エジュ・アズ・ケットェー)すなわち「1+1=2」の表現を覚えさせられるのに続き、次の課から加減乗除それぞれの表現や、2桁以上の数の表し方を順次学習していく流れとなっている。
 ノーベル賞の受賞こそしていないが、アインシュタインを超える驚異的な頭脳の持ち主として知られるジョン・フォン・ノイマンもハンガリー出身である。ノイマンを含む19世紀末~20世紀初頭にハンガリーで生まれた学者に特に優秀な者たちが集中しているのだが、彼らのほとんどがユダヤ人であったことは特筆すべきであろう。さらに、当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国において、オーストリア系ユダヤ人でなく、ハンガリー系ユダヤ人からばかり所謂天才たちを多く輩出したことに、何か社会的背景があるのかどうかは、私には分からない。
 今回の映画『ブルータリスト』の主人公も、ハンガリー系ユダヤ人という設定である。その辺りの、ハンガリーにおける才人輩出に関する何らかの社会的背景について新たに分かったことがあったら、ここに追って記していきたいと思う。

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