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【短編小説】海は手招く
視界がまぶしく輝き、蝉の声が五月蝿くなり始める頃、私は決まって思い出す。
「盆の時期は海に入るな」
母方の祖父に言われた言葉だ。
祖父はもうすでに他界しているが、この言葉だけは今でも心の中に残っている。
幼少期――。お盆に家族総出で母の実家に帰省すると、私は決まって海水浴に行きたいとせがんだ。当時、私達家族が住んでいたのは海のない県で、泳ぐと言ったらせいぜい幼稚園のプールか、市民プールしかなかった。
テレビでしか見た事のない『海水浴』というものに、私は強い憧れがあった。
祖父の家は日本海側の漁師町にあり、どこにいても波の音が聞こえてくるような場所に建っていた。二階の窓から見える海に、私は辛抱たまらず
「海で泳ぎたい!」
と、畳に身を突っ伏して暴れ、駄々をこねた。
その度に祖父は神妙な面持ちになり、
「海はいかん。絶対にダメだ」
と、こう言うのだ。
日に焼けた肌と、潮風に晒された独特の肌質、口元に蓄えた無精ひげと厳しい眼差し。
いかにも漁師といった風貌の祖父が私は大好きだったが、この時ばかりは心底恨めしかった。
「なんでダメなの!?」
「盆とはそういう時期なんだ」
叱るでもなく言い聞かせるようなその声と雰囲気が、幼い私の神経を逆なでした。
「分かんないっ!! なんでっ!?」
叫ぶ声はもはや金切り声に近く、ボロボロと涙をこぼして訴えた。
祖父は私の泣きやむまで頭を撫で、落ち着いた頃に肩を掴んでこちらを真っ直ぐ見据えた。
「いいか早苗、お盆っちゅーのは死んだ人がこっちに戻ってくる時期の事を言うんだ。……だが、海の幽霊はタチが悪い。おめえが行ったら海に連れて行かれるぞ。だから、行ったらいかん」
「……ユーレイ?」
「ああ、お化けの事だ。――海に入ったが最後、お前の足ぃ掴んで海の底に引きずり込むぞ」
「やだ……!」
大学生となった今ならばタダの脅しだと理解できるが、その頃まだ幼稚園児だった私は話を真に受け、結局水道水の張られたビニールプールで我慢するしかなかった。
※
「……」
軍手とタオル、水筒と小さな鎌に線香とライターを入れ、パンパンになったカバンを右肩に提げる。麦わら帽子を深く被り、菊と柄杓の入った桶を左手に持つと、私は家主のいなくなった祖父宅に鍵をかけた。
もうすぐお盆が来る――。
私は祖父母の眠るお墓を掃除するために、山沿いのお寺へと向かっていた。
人通りのない開けた遊歩道を歩き、ジメッと薄暗いトンネルを通り抜け、カンカンと乾いた音を鳴らす踏切の先を山側に20分ほど登ればお寺に着く。
本当ならば、父と母と三人でこの道を歩いていたはずなのだが、あいにく二人とも仕事の休みが取れず、墓掃除をする人がいないという事で、大学が夏休み中の私が前のりする事になったのだ。
「あら、早苗ちゃん」
道すがら、顔見知りのおばさんに声をかけられた。
こちらに来ると何かと世話を焼いてくれる加藤さんだ。祖父母の葬式でもよく世話になった。
「こんにちは、お久しぶりです」
「久しぶり~。こっちに来てたのね。……今日は一人?」
「はい。父と母は、後から来る予定なんです。私は大学の夏休み中なんで、一足先に来てお墓の掃除を」
と、左手の桶を少し持ち上げてみせる。
「偉いわねえ。あ、そうだ、後でスイカ持ってってあげる」
「ありがとうございます」
「ホントに綺麗になって~。前見た時はこ~んなに小さい子供だったのに」
そう言って加藤さんは、自分の腰辺りに手をつけた。
小学校低学年くらいの頃の身長だ。
「……」
冗談だというのはすぐに分かったが、今の私には思うところがあった。
「去年も会ったじゃないですか」――と、笑って誤魔化す。
「分かってるわよ。歳はとりたくないって言ったの」
加藤さんはケラケラと笑った。
加藤さんと別れ、再び歩き出す。
熱を反射するアスファルトの道は上り坂に差し掛かり、重い荷物を持っている私はすぐに息が切れた。
「っふ~……」
荷物をおろし、カバンから水筒を取り出すと、私は中に入っている麦茶をガブガブと飲みこんだ。
「……」
この時期はどうしたって思い出す。私がまだ小学二年生だった頃を。
……お盆の真っ只中に起きた事故を。
※
「近くで海が見たい!」と例のごとく泣き叫んだあの日、祖父は「見るだけならば」と、渋々私の手を握り海の近くまで歩いてくれた。
海に着くまでの道、空には白い太陽がギラギラと照りつけ、麦わら帽子を被る頭皮は、蒸れてダラダラと滝のように汗が流れてきていた。
あの年の夏は、本当に暑かった。
それでも、耳障りな蝉の音をかき消すくらいの波音が近づいてくるごとに、私の胸はワクワクと心躍っていた。
お盆のちょうど真ん中の日、祖父は海岸線が見える防波堤まで私を連れてきてくれた。
「海だ~!」
と、興奮する私の手を、祖父は決して放そうとしなかった。
ほど近い距離に見える海岸線は、暑さに反してひどく閑散としていたが、全く人がいないわけではなく、数えるくらいの海水浴客はいた。
人のいない海。グループらしいその人達は、気兼ねすることなくサーフィンボードを手に持ち、海に入って大はしゃぎしていた。
「なんちゅう奴らだ……!」
眉間に皺を寄せ、今にも怒り出しそうな祖父の様子に、私はいつだったか祖父に言われた言葉――『連れて行かれる』という言葉を思い出していた。
「あの人達、連れて行かれるの?」
表情が曇る私に、祖父は
「帰るか?」
と、優しく声をかけてきた。
「……、ううん」
と、首を横にふったその瞬間――
「うわぁっ!」
突然の叫び声に、私と祖父は反射的に振り返った。
目に飛び込んできたのは、さっきまではしゃいでいた海水客の一人が、沖の方で必死にもがいている姿だった。
「お爺ちゃん、あれ!」
「いかん!!」
祖父は私の視界を塞ぐようにして抱きかかえると、慌てて家まで走って帰った。
※
祖父母のお墓に着くと、私は早速伸びに伸びた雑草を持ってきた鎌で刈り始めた。
「……」
波の音が遠くに聞こえる――。
流れる汗をタオルで拭き、一心不乱に草を刈る。
あの日、溺れていた海水浴客は結局助からなかった。
助けにいった人も犠牲になった。
後になって知った事だが、お盆の時期は海でのトラブルが多く発生するらしい。クラゲが大量発生したり、離岸流が発生したり、台風が発生したりするのだと。
予測可能な台風ならばともかく、離岸流は目に見えないから対処のしようがない。
楽しく泳いでいたはずなのに、いつの間にか沖まで流され、慌てて戻ろうとして泳ぐが、どんなに泳いでも流れが速すぎて岸に近づけず、無駄に体力を削り、足を取られ、そのまま力尽きるのだという。
そして怖いのが、助けに行った人も巻き添えを食らう可能性があるという事だ。
助かろうと必死にもがく人間は、無意識に通常出ない力を発揮する。――火事場の馬鹿力というやつだ。
しかし、その力が発揮されるのが陸ならばともかく海となると話は別だ。
ただでさえパニックに陥り もがく人間を助けようとして近づけば、抗えない程の力でしがみつかれてしまう。そして、しがみつかれた人間はそれを解こうと無我夢中で暴れ、結果共倒れになってしまう……。
「っは~……」
折り曲げていた腰を伸ばし、タオルで汗をぬぐう。
本当にそれだけだろうか――と、私は思う。
きっとどの道助からなかったろうと。
「盆の海に入ってはいけない」
祖父の声が聞こえた気がした。
※
墓掃除を終え、菊の花を手向けて線香に火をつける。それから手を合わせ、
「今度はお父さんと、お母さんも来るから。……またね」
呟くようにそう言うと、私は荷物を持って帰路についた。
……波の音が聞こえる。
墓地からだと随分穏やかでささやかな音だ。近くで聞けばあんなにも大きく、飲みこまれそうな程力強い音を生み出しているというのに。
あれから十年以上経ち、事故のあった眼下の海は今、海水浴客で溢れている。
「盆の時期は海に入るな」
祖父の言葉が脳裏に浮かぶ。
複雑な面持ちで海水浴客を見下ろすと、私は緩やかな階段を静かに下りた。
あとがき
「お盆に海に入るな」――と、親はじめ周りの大人にきつ~く言われて育ってきました。でも最近は、お盆でも普通に海水浴楽しんでる人達がいるので、オールドタイプの私はモヤモヤ。
ところでこれを書いている途中、実は自分も沖に流されていたという事実を思い出しました。それこそ幼少期の話で、私自身全く記憶がない。教えてくれたのは私の母ちゃん。
浮輪に乗ってプカプカとはるか遠くの沖の方に流され、波に乗せられどんどん小さくなっていく私に母が気付き、必死に泳いで助けてくれた……らしい。
今思うとどんだけ目離してたんだって話だけど、気付いてもらえなかったら享年一桁になってた訳だし、こうして小説書いてグータラ ポテチ食べてる自分はいなかった。
生きてるって奇跡だね。