私的、日本人にベジタリアンが少ないわけ
「いただきますは命をいただくってことなんだよ」
子どもの頃から何度も耳にしたセリフだ。だが、何度耳にしても私の心に響いたことは1度もない。
パックされ、スーパーの店頭にきれいに陳列されている肉。
たまに血が滲んでいることもある。
なのにそれが生きている動物だった、という実感が私には未だにない。
仮死状態にさせ血を抜き、皮を剥ぎ、内臓をずるっと取り出し、ぶった斬って解体したものであることは頭では理解しているけれど、本当にはわかっていない。
もう随分と前のことになるけれど、イギリスに住んでいたことがある。
日本と違うことは多々あれど、とにかくベジタリアンが多かったことが顕著だった。
クラスメイトも先生も誰も彼もが、程度は違えどベジタリアンはどこにもいた。
レストランやカフェだけでなく、大学の学食にもベジタリアン用のメニューがあって、ベジタリアン用のソーセージというのはどんなものなの?と思って注文してみたこともあった。
自然派食品店には「ベジタリアン用の食器用洗剤」なるものまで売られていた。
あの美味しい肉を食べないなんて私には信じられなくて、だから「アイアムベジタリアン」と言うイギリス人には必ず理由を訊くようにしていた。
「生きるために殺すのは間違っていると思う」というのが一番多かった。
中には「昔の彼女と決めたから」というよくわかんない意見も一件あったが、ある時、大学の先生が言った一言が私にベジタリアンを、日本の食育を考えさせるきっかけになった。
それはグループディスカッションで牛乳について話していた時だった。
美術学部絵画科のグループディスカッションで、なぜ牛乳の話題になったかは覚えていないが、その流れでひとりの生徒が先生に「先生って牛乳飲む人?」と訊いた。
すると先生は、何て恐ろしいことを訊くの、という感じで仰け反りながら「あんなもの飲むわけないじゃない!牛の体の中に入ってたものなんか!」と言った。
牛乳は牛の乳だということはもちろん頭ではわかっている。乳搾りだって理解している。でも、先生のその一言を聞いて私は「牛乳は牛の体内に入っていたもの」とリアリティーを持って考えてはいなかったことに気付かされた。
知ってはいたけれど、わかっていなかった。
なぜだろう。
これは、肉が生きている動物だったという実感がないことと同じではないか、そんなことをぐるぐると何年も考え続けて、少し理由が見えてきた。
日本の小学校で「いのちを大切にしましょう」と何度も何度も言われてきたし、道徳の教科書とか校内のポスターとか、その言葉は至るところにあった。
しかし一方で「何でも食べることは良いことだ」と教えられてきた。
肉、魚、野菜をバランスよく、好き嫌いせずに何でも食べましょう、と。
この2つは大いに矛盾している。
いのちを大切にするなら、少なくとも肉と魚は食べられない。
でも日本の子どもたちは「いのちを大切にしましょう」。でも「何でもよく食べましょう」と相反することを言われ続けて育つ。ふたつが矛盾していることに気付かないまま育つ。そうすると、「肉や魚は生きている動物だった」という事実が封じ込められてしまって、スーパーに陳列されたパックに入ったピンク色の肉を見ても、それが生きていた動物であることに結びつかなくなってしまうのではないか。
少なくとも私はそうだ。
だからベジタリアンが稀なのではないか。
一方外国、というか欧米、というかイギリス人は「肉は生きている動物を殺したもの」とストレートに繋がっているようだった。
動物性食品をリアルに動物だと思っている。
だから「いのちを大切にする」。
よって、ベジタリアンになる人が多いのではないか。
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