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本を捨てて部屋で過ごそう

 本を捨てようと思う。といっても文字通りゴミとして捨てるわけではなく、古書店などに売ることになる。色々あり、先日半ば自棄のような気持ちで本の整理を始めた。有名な片付け法に倣い、ときめかないものを片っ端から廊下に出していく。たくさんある。自分で買ったのに、持っていることで心の重荷になっているような本もある。おかげで部屋の本棚はだいぶ余裕ができ、引越し以来開けていなかった漫画と雑誌の入ったダンボールもほぼすべて開けることができた。

 これは物全般に当てはまることだが、本を捨てるのは特に辛い。何らかの理由があって購入して、それなりの長さの期間、自分の部屋に場所を占めていた本だ。その中には読んだものも読んでいないものもある。何かに憧れて背伸びをして買った本も多い。学生時代に顕著だが、より幅広い本を読みたい、こういう本を読めるようになりたいと思って買っただろう本がたくさんある。そういう圧力が確かにかつてあった。それは時代のものなのか、過去に私が所属していたコミュニティのものなのかはわからない。そしてそういう教養主義的な圧があった方がいいのか、ない方がいいのかも、よくわからない。その一部は、今自分の世界の一部になっているし、その他はただ見栄を張って本棚を狭くしていただけかもしれない。

 本の整理をすることは、自分自身に向き合うことだ。私は何が好きなのか? この本の何に魅力を感じたのか? 何が楽しかったのか? 本当に好きなのか? 好きなフリをしていただけなのか? 無数の疑問が湧いてくる。過去の自分を恥じたり、そこそこ見る目があるなと褒めてやったり、自分自身と対話をしているような気分になる。

 でも、それらがどこまで「私」なのかはわからない。読んで何かを吸収することができた本だけが私なのか? いや、そうではないだろう。読んでいないけれど、自分が見上げた本も、おそらく今の私に何らかの影響を与えているはずだ。そう考えると、本を整理する基準がまた曖昧になる。身を剥がすようにして、取っておくものとそうでないものを分けていく。そうした廊下にできた本の山が少しずつ減っていく。

 過去はどの程度、今の私に影響を与えているだろうか? それとも、今の私はほとんど過去の延長線上にいるだろうか? 読んだものの積み重ねが私だろうか? 読んでいないもの、読むのを避けた言葉の数々が逆説的に私を形作っているだろうか? 電子書籍もある。図書館もある。書店に在庫もある。だったら、私の部屋に取っておく意味は何なのか? いつでも簡単にアクセスできることか? 本に線を引く権利が得られることか?  

 私は高校時代に自分が書いた詩を保存している。今見ると恥ずかしいものかもしれないし、そもそもそれを読み返すこともほとんどないのだが、それを捨ててしまえばもう自分が自分でなくなるような錯覚に囚われている。だから何度引っ越しても、カラーボックスに収納された紙の束がついて回る。それはとても重い。場所を取る。私自身の一部だ。

 とりあえず、アドレナリンが出ないと本は捨てられない。過去の自分への怒りに似た感情が、私を駆り立てた。それでも後日それらの本を眺めていると、気持ちが鈍る。古い本を多く捨てたら、現在の私、歴史に支えられていない瞬間的な私しか残らないのではないかと不安になる。でも本に埋もれて、私の生活するスペースが侵食されている。私が読んだ物が私なのだろうか? 私が書いたものが私なのだろうか? それらが物理的に失われて仕舞えば、もう私は私であるという実感すら得られないのだろうか?

 今日は森鴎外記念館に行った。一階のカフェで午前中からムースを食べて紅茶を飲む。昭和の喫茶店から出てきたような、きちんとした身なりの男性店員が一人で接客をしている。店内は比較的シンプルな作りだが、窓から紫陽花などの植物が見える。ステレオからはドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲が適度な音量で流れている。CDを見ると文京区立本郷図書館と書いてあった。文化的な場所に行くと幸せな気分になる。私もまた、文化的なものを愛する人々の共和国で、その末席に座ることを許されていると勝手に感じる。図書館や文学館という場所があることに喜びを感じるのは、それが物理的に存在する場所だからだろう。インターネット上にそのような感覚はおそらく存在しない。

 オアシスが再結成する(した?)とのニュースを目にした。その前後から、私は90年代回帰しているので、オアシスも最近はよく聞いていたので嬉しい。素直に乗っかりたい気持ちだ。ともあれ、オアシスについてはまた後日書こう、オアシスもまた、私自身の大切な一部だ。エアコンの静かなノイズの向こうに微かに雨が地面に当たる音が聴こえる。明日も雨だろうか。

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