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犬の名は

 子供は車が好きだ。「男の子だから」とつい言ってしまうが、本当に男の子だから生まれつき車が好きなのかはわからない。でも、友人の子供のことを聞いても、男の子は車が好きな子が多い。回転しているものが好きなのかもしれない、大きなものが好きなのかもしれない。見たこともない工事現場の車を絵本で見て喜び、実際に散歩中に同じ種類の車が走っていて振り向く。本能がそうさせるのか。

 子供は犬も好きだ。いつも「わんわん」と言いながら絵本を眺めている。絵本にはいろいろな種類のわんわんが出てくる。ミニチュア・シュナウザーのような犬や、シベリアン・ハスキーのような犬や、さまざまな犬がいるが、すべてわんわんである。子供はその違いを理解しているのだろうか。こんなに見た目も大きさも違うのに、なぜ同じわんわんなのか。私にもよくわからない。

 昨日の朝、散歩に出た。「涼しくなってきましたね」と言いたいところだけれど、まだしぶとく暑さは残っている。少しでも太陽が高くない時間に子供を担いで家を出た。コンビニに寄って、その前で犬の散歩をしているおじさんに出くわした。おじさんは多くのおじさんと同じく、どこか無表情で愛想がなく見えたけれど、子供は構わず「わんわん」と犬を呼ぶ。「わんわん、かわいいね」と私は何度か子供に向かって言った。

 私がしつこく「わんわん、かわいいね」と言ったからか、おじさんは無関心そうな犬をこちらに連れてきてくれた。むしろ街路樹の根元に関心があるように見えた。黒い柴犬だった。小さく、毛並みがつやつやしていた。動きは機敏で、一眼見て若い犬だと思った。おじさんが子供に「触っていいよ」と言った。子供はわんわんが近づいてきて固まっていた。少し怖かったのだろう。おじさんは、無言でいるときとはうって変わって優しそうな顔をしていた。こういうことがあるから、知らない人との出会いはやめられない。

 犬はとても人懐っこく、Kに小さく体当たりした。少し驚いてKは「うわっ」とよろめいた。おじさんは「あっごめんなさい!」と謝りながら、子供にもう一度「触っていいよ」と言った。私は子供の手を持って、犬の額のあたりに触れさせた。子供は緊張した表情をしていたが、途中から下唇を突き出して、なんとか泣くのを堪えていた。ギリギリで泣くのを我慢していたが、子供の表情は固まっているのがわかった。私は犬に「何歳ですか?」と訊いた。犬は、じゃなくて飼い主は2歳半ですと答えた。

 犬がその場を去ってから、子供は声を出さずに泣いた。子供は何度も絵本で犬を見ていた。子供と散歩する時、どこかの家の中から犬の鳴き声がすると、すぐに振り向いて、私に「わんわん」と言った。それでもこれまでの人生で、実際に犬に触れたことはなかった。犬の動きは機敏で、予想がつかない。ちょうど子供と同じように。犬は小さくても力強い動きをする。生き物には独特の怖さがある。その勢いに初めて触れた。

 人の認知には、例えば本で読んで物事を学び、それを実際に体験して立体的に学ぶ、という2段階があると思う。絵本などでデフォルメされた存在と違い、リアルな犬に触れるのは全く別の体験だ。今日、私はそのことを初めて意識した気がした。

 例えば歴史を学ぶときも、歴史の教科書で言葉だけ詰め込んでも今ひとつイメージが湧かないが、実際に博物館や美術館に行ってみたり、歴史に関する物語を読んだり、映画をみたり、あるいは何か歴史的な事件や戦争の現場に行ってみることで、完全な理解とまではいかなくても、少しは近づくことができる。それが立体的な知識になるということなのだろう。

 だから、「本を読め」というのも、「本ばかり読んでないで街に出ろ」というのも、どちらも必要で、本を読んで街に出る必要がある。その二つの往還を繰り返すことが「学ぶ」ということになる。その繰り返しの中で、知識はただの観念ではなく、初めて自らの感覚と合致する。もちろん街というのは比喩で、旅行でもいいし、どこか行ったことのない山や海でもいい。海も実際に見たり入ったりしてみると、波の強さ、波に体を持っていかれる感覚などはわからない。

 今、図書館で借りてきた『『坊ちゃん』の時代』という関川夏央と谷川ジローの漫画作品を読んでいるが、そこには夏目漱石がイギリス留学から帰国し、鬱々とした気分でいる中で小説を書き始めようとするところ、その舞台や登場人物のモデルとなった人々の人生が描かれている。

 私は学生時代、日本の近代文学にほとんど興味が持てずにいたが、数年前に夏目漱石が晩年に住んでいた早稲田に自分が住んでいることに気づいたこと、それから、今、夏目漱石がその前に住んでいた千駄木や、漱石が教鞭をとっていた本郷、当時から書店があった神田駿河台などとそう遠くないところに住んでいることなどから、当時書かれたもの背景を俄然興味を持つようになった。本を読むことと、自分の体験がどこか合致したのだろう。歳を取ってなんらかの経験をすればするほど、本は観念としてではなく、もっと自然に、自分の生き方と融和する形で読めるのではないか。今更ながら、読書が面白くなってきた。

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