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間違っていたから何だというのか/吉見俊哉『東京裏返し−−社会学的街歩きガイド』(集英社新書、2020年)

 子供は月のことを「あんぷちゃー」と言う。月と「あんぷちゃー」にどういう繋がりがあるかわからないけれど、絵本などで月が出てくると「あんぷちゃー」と言う。「あんぷちゃー」というのが何だか知らないが、彼が「あんぷちゃー」と言うんだから「あんぷちゃー」なのである。ソシュールではないが、そこに意味なんてないだろう。いつか彼は自分でそれに気づくかもしれない。しかし気づかなくてもどうってことない。間違っていたから何だというのか。

 私たちの言葉には不完全なところがたくさんある。さまざまな言語があるが、日本語を使いこなすことは相当難しいと思う。ひらがなカタカナ、漢字を混ぜて使うし、読点の打ち方はかなり感覚的でもある。ひらがなに開くと、名詞と助詞などでひらがなが連続してしまい読みづらかったりして、表記の統一を図るのも至難の業だ。横書きを縦書きに直すと、とんでもなくめんどくさいことが起こる。また、主語と動詞が離れてしまい、その二つが整合的につながらないことなんてザラだ。プロの書き手でも間違う。大人の日本語が正しいわけではない。

 吉見俊哉の『東京裏返し』を、仕事相手とのZOOMで薦められて読んだ。約350ページと結構分厚い新書で、パラパラとめくってみると紙がやけに薄く感じる。新書の紙ってこんなに薄かったっけ? と思う。藁半紙みたいな感じだ。文庫のような紙だ。でもこういう手触りは嫌いじゃない。実際、この本を手にしながら街を移動するのは楽しかった。手に馴染む柔らかさだ。

 この本には、吉見俊哉が集英社新書の編集部とともに、東京の北部を歩いたことが記録されている。各章はその街歩きの記録だが、最初に吉見俊哉が講義をして、それが終わってから街歩きを始める。なかなか凝った構成になっている。

 ただの街歩き本はたくさんあるといえばあるが、そこは吉見俊哉である。アイディアマンの彼は、東京をこうした方がいいんじゃないか、ああした方がいいんじゃないか、こういう景色は東京の良さを生かしきれていないから、こうした方がいいというような、改善案を次々と出していく。その改善案は普通に考えると実現性が低いものに思われるが、そんなことお構いなしに、東京のあるべき姿を提案しまくっていく。

 東京の「あるべき姿」を提案するという姿勢は、読者にとって両義的だ。私も単純に今の現実、今の東京に満足しているわけではないので、そのような批判的な視点は基本的には面白いと思う。でも、どこか説教くさくも感じてしまうのは私だけはないのではないだろうか。肌感覚でざっくり世代だと言ってしまうが、今の若い世代はどちらかというと、こういう現状に、特に資本主義体制に批判的な人は少ないのではないか。

 吉見俊哉の視点は、基本的に新自由主義/資本主義批判をベースにしている。それは東京が三度占領された、という被害者的な歴史観から生まれている。一度目は、徳川幕府による占領。二度目は、明治政府による占領。三度目は、GHQによる占領である。徳川による占領は否定的には語られないが、明治政府およびGHQによる占領は批判的に語られる。東京はどんどん悪くなっている。しかし、東京の複雑な地形のため、すべてが悪くなっているわけではない。悪くなりきれない、過去の断層が残るのだ。

 正直、本書で語られる現状の東京への批判、過去の東京の復元の提案は、少し苦手な感じがする。インテリはすぐに自分こそが答えを持っていて、社会はそれをわかっていないから愚かだと言いたがる。実際この10年ほど、私はそのような空気にうんざりしてきた。インテリたちが、自らの政治的意見から、大衆を批判したり馬鹿にするのを散々みてきた。その結果、リベラルは選挙にも勝てなくなった。それは彼らの思想ではなく、その上から目線の態度が支持されなくなったからだと思っている。生活者の実態から乖離した視野の狭い批判や想像力は、時に差別的な実践にもつながる。

 しかし同時に、私はそのような批判的思考、現実へのオルタナティヴを想像することこそが、広い意味での芸術の役割だと思っており、現状は、あまりにネオリベ的、現状肯定的な社会となっていることにもまた危機感を感じる。街はどんどん資本の論理に慣らされていき、すべてが合理性のもとに均されていっている。そのことにも私は悲しい気持ちを抱いている。だから、吉見俊哉の提言を一つ一つとても大切なものだとも感じた。もっと想像力を駆使して、吟味し、批判し、つまり闘争する必要がある。

 本書では、例えば、路面電車の復活が提言される。資本の論理に占領された現代社会は、ゆっくりしたスピードを駆逐してきた。そのために、路面電車は地下鉄にとって変わられ、都市の姿は一変した。東京という都市の時間感覚がそれで貧しくなってしまった。現在三ノ輪から早稲田まで通っている都電荒川線を、東は南千住、浅草、西は飯田橋まで延伸させるというアイディアである。いかにも無理なんじゃないかという気がするが、実際に無理かどうかを精査検討するわけではなく、そういう思想、アイディアを提案しているだけだ。吉見はあくまで、都市のポテンシャル、可能性を広げるアイディアを次々と提示してみせる。これはある意味で、現状の都市の時間感覚を「裏返す」試みだ。

 また、本書では東京大学のある本郷と上野は、ほとんど特権的なまでに重要視される。特に上野は、かつて徳川家の寺として権勢を誇った寛永寺があった。この聖なる場所を、明治政府は徹底的に潰した。寛永寺のあった膨大な土地は分割され、そして、公園が作られた。米軍による占領が戦後始まると、東京の表舞台は原宿や渋谷などの、東京南西部に移され、ある意味で上野は周縁に追いやられる。これは、東京の歴史の「裏返し」である。東京を裏側から見る試み。「裏」とは、現実という「表」に対するオルタナティヴであり、あり得たかもしれない世界でもある。

 東京大学本郷キャンパスもまた、あるべき姿になっていないと吉見は言う。知を街と一体化させることを吉見は想像する。西片のあたりにはたくさんの教職員が住み、ある種の欧米の大学都市のように、寮のような感じでみなが近くに住み、地域と一体化した形での知を夢想する。しかし、東京大学は地域住民との摩擦もあり高い壁で覆われており、また、南原繁時代に提案されたこともある、池之端の土地買収も現実的なものにならなかった。東京大学の上野側にある門を出ると、不忍の池の辺りにでる。今はその目の前にタワマンが建っているのだが、その土地をかつて東大が買収できていれば、上野と本郷がつながる知的都市の新しい風景が見えたはずだと吉見は言う。上野は、赤門や正門が東大の「表」だとすると、あくまで「裏」なのである。そこに吉見は注目してみせる。

 吉見の視点はいわゆるカルスタ的なスタイルで、資本主義によって街が破壊されたと批判する。タワマンだらけの「高い」東京には、「低い」谷中の町の景色を対置し、地下鉄などの「速い」東京には、「遅い」路面電車を対置する。そうして、資本主義が都市から奪っていった人間らしさを、一つ一つ取り戻そうとする。そうした思想性が本書の特徴である。お説教抜きでただ街歩きを楽しみたいという人もいるだろうが、本書はそうしたものとは明らかに異質だ。価値判断があり、現状の東京はそれにそぐわないと言っている。

 しかし、とにかく、街を歩くために十分すぎるほどの刺激と知識と小ネタを教えてくれる豊かな本であることは間違いがない。都市をこういうふうに読み取り、こういう歴史を重ね、都市のあるべき風景をこういうふうに描くことができるんだという知的な驚きがある。吉見のアイディアと情報整理能力はずば抜けている。著者の想像力と、鍛えの入った現状批判の精神に感服する。上野駅の地下通路を殺風景と言い、返す刀で蔵前横の隅田川の遊歩道をセンスがないと一刀両断する。なかなかそんなこと言えない。昔の人は「こうあるべき」という気持ちが強かったんだなあと感じる。今の景色を楽しもうと言うよりも、もっと踏み込んだ批判精神がある。それが知というものだったのだろう。


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