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目白についてのあれこれ/金井美恵子『目白雑録I』(中公文庫、2025年)

 長い間、目白には憧れがあった。学生時代に仲のよい友人が雑司ヶ谷のあたりに住んでいて、その辺りには何度も遊びに行った。高田馬場とも池袋とも違う、その間に挟まれた、とても静かな街だ。その印象は今も変わらない。

 学生時代に知っていた目白はどちらかというと、山手線の内側、学習院のあたりとか、雑司ヶ谷や鬼子母神のあたりだった。せいぜい目白の大戸屋あたりぐらいまでだったのだけれど、その後、子供が目白の病院で生まれてからは、山手線の外側、目白と椎名町のあたりもじっくり歩く機会があった。そのおかげで、江戸川橋あたりから、椎名町近く、山手通りのあたりまで、目白通りは一通りイメージできるようになった。

 子供が生まれてから、しばらくは病院に毎日通った。妻と二人で早稲田から白61という都バスで、早大通り、江戸川橋、目白通りに入ってカテドラルの前から、緑の多い目白通りを走る。学習院や目白駅を越えて、いくつかさらにバス停を過ぎる。私はこのルートが好きだった。すべての景色が、今も鮮明に蘇る。何度か妻と駅前の寛永堂でお茶とあんみつを食べたこともあった。とてもいい思い出だ。

 今、引っ越してからはこのルートで出かけたことはない。ふだん使う電車やバスのルートから外れたところにあまり行かない。距離的にそう遠くないところにいても、少しズレるだけで、行動圏は全然違うものになる。その無意識には、地形なども影響しているかもしれない。時々意識して、自分の生活圏から踏み出していかなければ、目白に行く機会は今までよりさらに少なくなってしまう。それはとても残念だ。

 金井美恵子の『目白雑録』が中公文庫に収録されることになった。しかも、三ヶ月連続で刊行されるらしい。『目白雑録』とは、「一冊の本」という朝日新聞出版のPR誌にかつてあった連載で、目白に住む金井美恵子が、日々の生活について記しながら、よく新聞の切り抜きを引用し、ニュースについて批判的な(皮肉的な)コメントを添えたり、映画の感想を述べたり、サッカー批評までしたり、文学者に対して強烈な皮肉を記したりする、という内容のものだ。月に一度の連載だが、日記のようでもある。

 『目白雑録』はすでに何年にもわたって連載されていたので、何冊も単行本になっている。確か平凡社ライブラリーにも入っている。そうした単行本を集めて3冊の文庫本にするというのが、今回のシリーズ企画らしい。金井美恵子は近年、ノーベル賞の候補(よく言われるように、賭け屋のオッズにて上位に入っているだけで公式の候補ではないが)にもなり、再注目されている。

 それはともかく、私はとにかく目白が好きなので、その辺りが描かれていると思うだけで、読みたくなる。出てくる地名というか情景がいい。目白通りはもちろん、目白通りの丸正、目白通りのピーコックストア、椎名町のサミット、喫茶店、目白通りの文房具屋、美容室、というように、地理的範囲こそかなり限定されるものの、ああ、あのへんか、となんとなく風景が浮かぶ。風景が浮べば、読み手(私です)はグッと引き寄せられる。

 もちろん、ただ、近所の話や猫の話を書いているだけではない。そこからいきなり、文壇批評(悪口)に急展開していく。そうした、硬柔というか、日常的な話と、テレビで見た話と、雑誌で読んだ話と、映画の話と、近所の噂話などがある種シームレスに繰り出されていくのが、金井美恵子のエッセイの魅力だし、それは日記に近い感じもする。実際あとがきで、こちらも中公文庫に収録されている大岡昇平の『成城だより』や、深沢七郎の『いわなければよかったのに日記』も出てくる。

 この、特に猫の話に象徴されるような日常的な話と、文学についての話が半ば意図的に混在しているあたりは、私が好きな保坂和志の書くものにも似ているし、実際、保坂に近い若手批評家の山本浩貴が『目白雑録I』の解説を書いているところからも、今回の中公文庫での復刊が、保坂的な文脈との接続を試みているという側面もあることが推測できる。ちなみに、大岡昇平の『成城だより』のIIの解説が保坂和志で、Ⅲの解説が金井美恵子だ。

 『目白雑録』は、上にも述べてきたように、多様な楽しみ方ができる本だと思うが、やはりその中心的な面白さは、罵倒、とは言わないまでも、文学者への批判的な記述だろう。実際、様々な引用を、思いつきのようにつなげていくのだが、その一つ一つのつながりが面白く、芸がある。この『目白雑録I』が書かれたのは2002年4月から2005年1月までのことで、ちょうど私が大学の学部生だった期間と、ほぼ重なっている。それはそうと、島田雅彦と加藤典洋、福田和也、柄谷行人あたりが、この時期には批判的に語られていて、特に島田雅彦についての部分がくどいがすごい(ひどい)。長いが抜群に面白いので、二つ引用をして、今日の日記は終わりとしたい。

 言うまでもないことだが、島田雅彦の『美しい魂』が出版されようとされまいと、私にとってはどうでもいいことだし、第一、〈前作『彗星の住人』刊行時から皇室問題に触れる部分があることが、新潮社やその他新聞、雑誌メディアによって指摘されていた〉という『彗星の住人』も読んでいないと言う有様なのだから、まあ、はっきり言って(いくら批評家ではないとしても)、「未刊の辞−−『美しい魂』は眠る」(「新潮」五月号)という出版延期についての自己弁解の文章を読んで批評しようというのは、いくらなんでも図々しいわけなのだけれど、たとえば、八カ月という短期間に一八万文字六五〇枚の〈心血を注いだ作品〉である『美しい魂』を脱稿後、〈担当編集者とのあいだで入念な直し〉が入れられ、それはその段階ではまだ〈言葉を磨き、より緊密な構成にする、いつもの手直しに終始し〉いたと書いてあるのを読んで(『彗星の住人』は読んでいないにしても)、他の島田作品なり文章を読んだことのある読者としては、失笑する権利は有しているはずだ。

(『目白雑録I』、34頁)


  加藤典洋は『テクストから遠く離れて』という、気の利いたパロディかなんかのつもりのタイトル(『小説から遠く離れて』という蓮實重彦の現代小説論があったのだ)の評論集で、オビのコピーによると〈小説の核心的「読み」を通して、テクスト論批評の限界を超え〉て〈「脱テクスト論」が拓く新しい批評の地平!〉というのをやっているらしいが、読んでいないので「テクスト論批評」を、誰が書いたどのあたりの「批評」として批判しているのか知らないが、たとえば柄谷行人はインタビュー(「週刊読書人」二月二十日)で、彼が文芸批評をやらなくなったことに〈今の批評家も、何か「寂しさ」を感じているところがあるのではないか〉という質問に答え、〈それは知りません。ただ、僕がやめて明らかに困るのは、何人かの小説家です〉と答えているのを読んだりすると、批評家の自負心があんまりおかしくって、ついワクワクしてしまう。


(『目白雑録Ⅰ』260-261頁)


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