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去勢された毎日を生きのびるために/坂口恭平『生きのびるための事務』(マガジンハウス、2024年)



 
 事務が苦手である。でも事務が苦手な人など星や砂の数ほどいる。誰にとっても嫌なものだと思う。それに事務が苦手だということで、どこか事務という単純作業ではなく、もっとクリエイティヴな作業なら得意だけど、誰でもできる事務みたいなものには自分は疎いということを言おうとしているようにも聞こえてなんだか嫌だ。自分を特別視しているのではないかとも思う。でも、事務は死活的に必要だ。書類仕事のめんどくささ。後回しにしてしまう経費精算。スケジューリングへの不安。常にそうしたものに悩まされている。

 坂口恭平の『生きのびるための事務』という本を書店で眺めていて、私は上記のような、事務作業の苦手さをいかに克服するかというような、いわゆる「How To」がわかるような本を想像していた。今思えば、坂口恭平がそんなにベタな本を出すわけがないのだが、なぜだかそのように思っていた。でも、なんとなく気になってはいた。そんな睨み合いのような状況の中で、友人が、この本が面白かったと連絡をくれた。だから私は迷うのをやめて、飯田橋のラムラにある書店でこの本を買った。お盆休みの最中だった。帰宅してすぐ読み始め、一日で読み終わった。

 やっぱりちょっと不思議な設定というか、まだデビュー前の、若き日の坂口恭平が将来どうしようか、不安に感じながらも未来を描き、作品を作っていくようになる過程で、「ジム」という友人に事務とはなんたるかの指南を受けるという作品である。ほとんどは坂口恭平とジムとの対話形式で書かれており(漫画である)、ジムが坂口恭平に説明している部分が圧倒的に多い。坂口は訊かれた質問に答えたり、合いの手を入れるむしろ聴き手に回る。ジムは坂口の思考を具現化したような、そういうキャラクターだ。

 ここで言われる事務とは、いわゆる書類を提出するとか、そういう事務とは異なる。いや、そういう事務も含まれるのだが、それよりももっと事務という概念の基本的なところを押さえるような概念だ。だから上で「How To」本を想像していたと書いたが、むしろ本書は「どうやるか」ではなく、「どうあるか」という本だと思う。その意味でより哲学的であり、自己啓発的な部分もある。

 でも、だからといって抽象的なわけではない。むしろ本書で言われる事務は、抽象性を拒否し、徹底的に具体的であることによって、好きなことを継続して行えるような環境を作り出す術を教えてくれる。そのために事務が必要であり、徹底的にその事務の精神を、坂口はジムに叩き込まれるのである。

 まず、ジムは「イメージできることは現実になる」と言い、そのイメージをはっきりさせようとする。たとえば、10年後、どういう生活をしているか。そのイメージの精度を上げていく。どういう仕事に就いているか、というレベルではなく、何時に起き、それから何をして、というふうに一日のタイムスケジュールを書かせる。そして本を書いて生きていくためには、何%の印税をもらうか、そして何冊売れば、何回重版が出ればいくらの収入になるのか、徹底的に具体的にイメージさせる。

 そうした一つ一つの具体的なイメージがあって初めて、そのイメージに向かって実践を始めることができる。だから、夢とかそういうことではなくて、イメージなのだ。そして、それが具体的であればあるほど、それは実現する。その一連の過程が本書では「事務」と呼ばれる。だから普通「事務」と呼ばれるものよりも、その範囲は広い。

 本書は、極めて具体的な本ではあるけれど、同時にどのように生きるのか、その構えを教えてくれる本だと思う。何かがうまくいかなくても、それは自分のやり方が間違っているだけだ。そのやり方が正しければ、必ずうまくいく。そして、「才能」という言葉には意味がない。ただ、やるかやらないか。それだけだというのも、徹底的に具体的で物質的だ。たとえば、坂口は一日十枚原稿を書くという目標を立てる。そしたら、その内容がいいとか悪いとかではなく、ただそれを粛々と実行していくだけなのだ。

 目的(本書では「好きなことを継続すること」)が明確ならば、その目的に辿り着くまでに、他のものに優先順位がつけられる。必要ないものは一度切り捨て、目的への道を作り直す。「好きなことをする」という「夢」を実現するために、そこに至る道は具体的なことだけなのだ。本書はある意味で、精神主義にとらわれないように、自分を守る手段を教えてくれているのだと思う。事務で具体的にさまざまなことを固めていくと、観念に溺れたり、細かい結果に一喜一憂する必要がなくなるからだ。

 そう言うわけで、本書は思ったよりわかりやすいような本でもない。いや、わかりやすいのだが、浅いものではない。結局、人はこのように「夢」や「未来」を思い描き、その精度を上げていったとき、一つの問いに辿り着く。「好きなこと」ってなんだろうということだ。坂口恭平はそこに迷いがない。彼は本能に従って、とにかく創作をし続けることで、この10年を突破してきた。だから、ある意味で本書はわかりやすい。優先順位が見えやすい。

 でも、人は本能のままに生きることは案外難しい。社会で生きる上で、様々な楽しいこと、快楽、夢、好きなこと、そうしたことは抑圧されてしまっている。ある意味で、私たちは去勢された状態で毎日を過ごしている。本書は、そうした去勢された毎日を「生きのびるため」にこそ、事務が必要だと言っている。それは結局、自分の声に耳を澄ますことだ。そのために、私たちには武器が必要だ。私たち自身を守る壁が必要だ。それが本書で事務と呼ばれるものだ。

 本書には様々な次元のヒントが埋め込まれている。後半は坂口のデビューをめぐる自伝的物語として読んでも面白い。そして、実際に何をどうやればよいかというハウツーの次元でも機能しているかもしれない。でも本書には、それ以上に思想的な、私たちが社会の中で、自分がしたいことを潰されずに、それを大事に守って、自らの優先順位を打ち立てていく方法が書かれていると思う。それは結局、自分が一番好きなこと、自分が一番大切なものを見つけろということだ。坂口恭平は常にそういう本を書いてきたし、これからも書いていくのだろう。


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