宮部みゆきの「淋しい狩人」を読んで涙が溢れた理由
宮部みゆきさんの作品に「淋しい狩人」という連作短編集があります。
東京下町、荒川土手下にある小さな共同ビルの1階に店を構える田辺書店。店主のイワさんと孫の稔で切り盛りするごくありふれた古書店だ。しかし、この本屋を舞台に様々な事件が繰り広げられる。平凡なOLが電車の網棚から手にした本に挟まれていた名刺。父親の遺品の中から出てきた数百冊の同じ本。本をきっかけに起こる謎をイワさんと稔が解いていく。
平成5年に刊行された本です。
当時はバブル終焉。派手な扇子をひらひらさせて、お姉さま方がお立ち台で踊っていた頃です。
そんなお姉さま方とほぼ同世代にも関わらず、わたしは扇子をひらひらさせることなく、東京の片隅の小さなアパートでひっそりと暮らし、この本を買いました。読み終わって、しん、とした気持ちになったのを覚えています。
その後、何度か引っ越しを繰り返すうち、いつのまにか本棚から無くなっていました。たぶん整理しようと実家に持っていき、その後、母がバザーにでも出してしまったのでしょう。
ずっと忘れていたその本をふと思い出したのは、近くの本屋さんで平積みされているのを見たとき。
考えたら4半世紀も昔に書かれた本です。宮部みゆきさんの著作の中では地味に感じていたので、今でも読み継がれていることが少し意外でした。
しばらく迷い、その日は買わず、後日、とある古本屋さんで買うことにしました。古本屋さんが舞台の物語なので。
久しぶりに読む「淋しい狩人」は、時代の古さはあまり気にならず、すっと物語の世界へ入り込むことができました。
一見とっつきにくそうだけど人情味あるイワさんと、明るく飄々とした孫の稔の掛け合いにほっこりするものの、推理小説なので殺人事件も起こります。なかなかヘビーな展開もあります。
そこは稀代のストーリーテラー宮部みゆきさんですから、あー面白かった、だけでは終わりません。本を閉じた後も、まだ物語の中にいるようなふわふわした余韻が残ります。自分が登場人物として本の中で生きているような、そんな感じ。
そう思って、初めて読んだときの、しん、とした気持ちを思い出しました。
物語に出てくる登場人物の多くが不器用です。
「黙って逝った」の路也は書くべきことのない人生を送る自分にやるせなさを感じ、「歪んだ鏡」の由紀子は自分の容姿に自信が持てず、うじうじしています。大都会東京で暮らしながら時代の波に乗れず、生きづらさを抱える人たちです。
この時代、世の中は本当に華やかでした。まわりの人はみんな、きれいで、お金があって、自信満々に見えました。
だけど、わたしは違いました。きれいでもないし、お金もないし、自信も無かった。地方から上京して、東京にはきらきらしたものがいっぱいあると思っていたのに、わたしはきらきらの中に入ることができなかった。
だからこの本を読んだとき、わたしは、しん、としたのです。
あ、わたしがいる、と。
数十年経って読み返したとき、バブルと無縁に生きる人々の哀しさは感じませんでした。
それどころか、バブルの華やかさもとくに書いてありませんでした。
そう感じたのはあの時代に読んだからだったのでしょう。
あのとき、わたしは時代の波に乗れず、取り残されたような気持ちになっていました。
そんなときに読んだ「淋しい狩人」は、わたしのような人にも優しい目を向けて、そっと主人公にしてくれました。
本は不思議です。
たまたま手にした本が、気持ちを盛り上げたり慰めたり、寄り添ってくれます。オーダーメイドのように、その時の感情にあわせて、目に留まる言葉や心に残るストーリーを差し出してくれます。
「淋しい狩人」を、面白い推理小説として読む人は多いでしょう。
一方で、この本から優しさ感じる人が今もいるかもしれない。昔のわたしのように。だから読み継がれているのかもしれない。
そう思うと、涙が溢れてきました。
わたしはこの本を「たなべ書店」という古本屋さんで買いました。
物語の舞台、「田辺書店」のモデルとなった本屋さんです。買うならここで、と決めていました。
イワさんと稔はいなかったけど、本屋さんにいる間、わたしは「淋しい狩人」の登場人物のひとりでした。
きっとイワさんは、25年前のわたしと今のわたしを見付けて、そっと微笑んでくれるでしょう。
大丈夫、ちゃんと大人になったね、と。
本が、いつまでもいろんな人のいろんな気持ちに、寄り添う存在でありますように。