改訂版『10年目のミスiD―ミスiDの再定義』から受けたもの
昨日、こんな記事を公開しツイートでみんなに宣伝しました。
この記事を書いた経緯を解説します。まずわたしが目にしたのは同じテーマを掲げた2つの記事。あめさんとくそねみねむ助さんの記事です。この2つの記事は2人の通話から生まれたものだと聞いています。おそらく2人の通話の中で「ほんとみんなそうだよね!」「それすっごく同じこと思ってた!」ということがいくつも起こったのだと思うのですが、そこから後でnoteに同じことを書こう、という経緯があったのだと認識しています。そしてわたしはその2つの記事を読んで感化された。大きなショック(衝撃という意味で)を感じ自分の文章はなんてつまらないんだろうと思ったのです。同じことをテーマに自分の考えも書いてみたい、という興味もあったけど、久しぶりに自分の本性に任せて尖らせたまま文章を書きたい、という気持ちもありました。これを書いてみんなが読んだら同じように衝撃が広がるだろうなとも思っていました。でもそれが結果的に人を傷付けてしまった。不快にさせてしまった。自分は強い言葉の中からふたりの意図を汲み取ったりできたけど、全員ができる訳じゃない。「傷付けるつもりはなかった」なんて後からいくらでも言えるし、それで「勝手に傷付いた側が悪い」なんてわたしにはとても言えない。だから今この記事を書いています。
そもそも本音で書く必要はあったのか?と。本音で書いてそれを読んだ人って、一部の人は本性が見れて面白い、と思ってくれるかもしれないけど、ほとんどの人は不快に感じることが多い。不快に感じさせてしまったら伝えたいことも伝わらない。努力努力と言っているのにわたし自身は伝える努力を疎かにしていた。反省しています。なので、改訂版として、本音より伝えることを優先して、文章の一部を訂正して公開することにしました。
元の記事を編集しようかと迷ったのだけれど、それを残すことで後から「どこを改めたんだろう?」と誰かが気になった時に確認できるよう、改訂版とは別に残すことにしました。
ということで、以下からが本文です。よろしくお願いします。
※注釈※
この記事は終始ミスiDにおいて、という話をしています。あなた自身や人生を否定したりする意図はありません。ミスiDで選考を突破するにはどうしたらいいのか、個人で考えた結果の文章なので、これを意識すれば絶対選考を突破できるわけではないし、もちろんわたしだって選考を通してもらえるかなんてわかりません。全て個人の意見です。これが事実だ、と突きつけるつもりはないしそんなことはできない。
まずは、わたしと同じくミスiDにエントリーしているあめさんとくそねみねむ助さんの記事を読んでもらいたいと思っています。この2人の記事を読んで感じたことが引用RTだけじゃ語りきれなかったから、ここに来ています。
2人の記事に沿ってわたしも文章を書こうと思っているので(別タブで2人の記事を開いています)、この記事を読みながらでも構いません。
(正直、本当の天才たちは読まなくていい文章だと思っています。本当の天才は努力せずとも容易に結果を手にしてしまう。しかし我々のような凡人がミスiDで戦っていくには、2人の言葉はとてもいい道標になると思っています)
まずわたしの話をしていいですか。
わたしって、分析がとにかく好きです。
「なぜこの言葉はこうなのか?」
「この人は何を思ってわたしにこう言ったのか?」
「わたしは何に影響されてこんな気持ちになっているのか?」
おそらく中学生くらいの頃からずっと分析し続けています。幸いわたしの手元にはTwitterという世界があったので、文章にしては世に出して、世に出したものを客観的に見てまた分析して、を繰り返してきました。ミスiDをきっかけにはじめたnoteではもっと長い文章をいくつも書きました。
(しかし一部わたしの文章は言い訳の側面があまりにも強かった。自分が大きなショックを受けて混乱した時、惨めになった時、いつも文章を書きました。自分が如何に可哀想な存在でないかということを書きました、今回はそうならないと願いたい)
分析と言っても、ほとんどこじつけであります。ひとの心などわかるわけがない。自分の心だってわからないのに。「そうである」と決めつけることで無理やり飲み込んでを繰り返していたのでした。
ミスiDのこともそうです。わたしは何度もミスiDのことをnoteに書きました。単純に、ミスiDを分析するのが楽しかったから。分析してもしつくせない、分析結果を出しても直ぐにミスiDというものは変わっていってしまう。わたしにはうってつけの暇つぶしのように感じました。でもわたしはいつも自分の都合のいいように解釈し公開して、頭を使ったらお腹がすいたと何かを食べるのでした。今回は、人の解釈を分析するといういつもはやらない特殊なことをするので、現時点で既に頭をフル回転させています。
長々と申し訳ない、本題に入りましょう。
あめさんの文章は自身に向けて、思考を整理するといった形で(とはいえ公開する文章なので人に対して伝えようとすることも忘れず)書かれていて、ねみねむさんの文章は確固とした自分を持って、読む人に対してはっきりとものを申していました。しかし形は違えどどちらも2人の通話の中で話していたであろう同じことをテーマとして書いていました。
物事は全て立体です。生き物の目がふたつあるのはなぜだと思いますか。シマウマなどは視野が広がるからという理由が大きいと思いますが我々人間にとっては「立体感、遠近感を得るため」というのが主な理由です。物事を表した文章なども同じで今回ふたつの視点から読んで、2人がどんなことを話したのかどんなことで共鳴したのか、2人の関係性を感じることが出来ます。一方だけでは分からなかったことです。
わたしもあまり頭がいいわけではないので、どちらも難しいことを書いていると感じたのだけれど分からなくても読み進めることをおすすめします。
この文章の中で、わたしは戦いだとか勝負だとかの言葉を使うと思います。苦手なので本当は使いたくないけれど、結局オーディションって愛の争奪戦という形だとわたしは認識しているので使わせてもらいます。
ひとつめ、ミスiDとアイデンティティについて
わたしはミスiDにエントリーしている一部の人は、とても勿体ないことをしていると思っています。何かをしているように表から見えていないから。表から見えていても薄っぺらく感じてしまうから。
ミスiDでは自分を売り出さないと意味が無い。あなたはどんなことを考えている人なのですか?何がやりたくて何をやっているのですか?ミスiDを受けたのはなんでですか?考えるのって大変だけど、全部ある程度考えておかなきゃいけないと思っています。だからわたしは毎日毎日自分と向き合っています。つまらないと思われないように頑張っています。
それに本当に評価されたいなら、自分の何を評価されたいのか明確にしなきゃいけない。明確にしないまま進んでファイナリストになって賞を貰っても、それは本当に嬉しいことですか?多分わたしはそうじゃない。でもわたしもまだはっきりとはわかってないから、あなたと一緒に模索したいと思っています。
2人の文章の中で、あめさんは「人生を、解像度を上げて見せていくべき」というようなことを、ねみねむさんは「今のその結果に至るまでのストーリーは何なの?」というようなことを書いています。
正直わたしにもぐさりと刺さりました。わたしはいつも都合の悪いことを隠して生きてきました。恥ずかしいと思ったこと、言えば嫌われると思ったこと全て隠して生きてきました。
わたしの背中に貼り付いた成分表は見られたくない
どうでもいい隠し味が多すぎるからなんとなく恥ずかしい……
――自分のエントリーシートからの抜粋
普段の生き方はそれでいいかもしれないし、ミスiDにおいても何もかも、辛いことを思い出してまで全てをさらけ出す必要は無いのかもしれない(それを無理してしなきゃいけないならミスiDに出てメリットはないだろうし)。でも自分というものを人に魅せるために省略しちゃいけない部分だってあるのです。わたしはそういうものも省略してきてしまったかもしれない。これからはそういったこと、考えていかなきゃいけないと思いました。
ただ、わたしも前とは変わっていてやりたいことを少しずつはじめるようになったし、何者かになりたいとただ言うだけの日々はやめました。あなたは何を始めますか?
しかしわたしは、ミスiDのために努力が絶対必要な訳では無いと思っています。自然体で、自分らしく生きていれば自然と賞を取れてしまう人も過去たくさんいたし。
しかしミスiDを自分の糧にしたいなら話は別。何者かになりたいなら自分からならないとなれない。ミスiDにエントリーしただけで何かになれる訳じゃない。友達を作りたいという目的も十分だと思うけれど、行動しなきゃ友達は作れないし、作った友達が果たして自分にいい影響を与える友達であってくれるのか(友達をそんなふうに選別するのは良くないことかもしれないが、少なくともわたしは悪い影響を与えてくる人は傍に置いておきたくない)、それは自分の行動次第でしょう。調理していない生の食材を出して、それが美味しく食べてもらえるかって言ったらNOでは無いかと思うのです。食べてすらもらえないかもしれない。それでなんで食べてくれないの!と怒るのはすこしお門違いなのです。
ふたつめ、精神疾患について
アイデンティティという言葉のおさらいをすると、日本語にして「自己同一性」、時間や環境に関わらず自分を自分たらしめていることをアイデンティティというのだとわたしは思っていますし、辞書にも同じような意味が載っています。
精神疾患ってあなたのアイデンティティですか?確かに疾患がなかったらあなたはあなたじゃないかもしれない。でもそれって疾患があなたを構成しているんじゃなくて既に構成されたあなたが精神疾患を受けて形を変えた、というのが正しいのではないかと思うんです。
実はわたしは、2年前のわたしにとって1度目のミスiDのときそれをよく知らず躁鬱病をアイデンティティとして押し出していました。当たり前に落ちて、悔しくてそこからずっとミスiDのことを考えています。今ではあの頃の自分が恥ずかしくて仕方ない。
わたしが、わたし達が精神疾患を通して伝えるべきなのは、ただ自分が精神疾患であるということではない。それと自分との関係性なのです。患った経緯は?患ってどう思った?患って何か影響を受けた?患いながらでも頑張っていることは何?それをちゃんと伝えなければならないのです。
ちなみに2人も同じように書いているのですが、その中でもただ病んだ話って正直観衆は聞きなれていて、面白みがないことも我々は念頭に置いておかなければなりません。病んだ状態で書いた文章や作られた作品ではたまに面白いものが生まれますが、ただ病んだ報告のような話は読んでいて飽きてしまう。文章を本当に読ませたいなら、話を聞かせたいなら工夫が必要なのだと思います、自分もできているか分からないけれど。とくに読んで欲しいとかでなければつまらなくても自分の好きに書けばいい。でもミスiDはオーディションです。結果を残したいなら魅せ方に何か手を加えるべきだと自戒も込みで思います。
みっつめ、自己肯定感について
自己肯定感、この議題については2人は違ったことを書いているように感じます。それはこの2人がそれぞれ普段からこの言葉を使って何にスポットを当てているのかの違いで、本来この違いこそアイデンティティだなと思いますが、その話は置いておきます。
初めの方で書きましたが、ねみねむさんははっきりと、読む人に向かって言葉を放っています。この議題では「ミスiDに夢見る、社会に適合できない悲劇のヒロインのままじゃマジで戦えないですよ」ということを言っています。正直とても刺さりました。
わたしが最初にミスiDを受けることになったのって言ってしまえば高校を中退してやることがなくなったからでした。他にやることがなかった1年目のわたしはミスiDに全てをかけていました。そして、呆れるほどつまらなかった。
しかしそれからわたしはとても変わったように思います。ミスiDがなくたって続けたいと思うことがたくさんあるし、物事を考えられる深度が年々伸びていく。意味のある行動を、意志を持って出来るようになってきたと思います。
そして、あめさんの文章に書かれているのと同じ方向に変わった部分もあります。ここで出てくる、自己肯定感の上昇です。あめさんはここで『自己肯定感』ではなく『自己効力感』という言葉を使っています。わたしは今ちゃんと意味を調べて初めて知ったのですが、“自己肯定感”は「存在してるだけで価値があると思えているかどうか、いわゆる自尊心」というような意味で“自己効力感”はもっと具体的な、「なにか目的に対しての行動を、自分には出来ると認知しているか」という意味らしいです。ひとつ賢くなりました。
わたしにとってはどちらも上がったように感じます。例えばなにか依頼を受けた時に、自分には能力があるからそれを素晴らしい形でやり遂げられると自分を信じてあげられる。ミスiDに対しては、自分は観衆や選考委員に飽きられないような人間である、飽きさせないように出来ることがたくさんあると信じています。さらに、それで失敗してもきっと立ち直れると信じています。きっと失敗してしまうから、と何かを諦めることが減りました。自分なんか、と言う頻度が減りました。
これはいい変化で、ミスiDにこれを活かせます。これ自体を見せびらかす武器ではなく、上手く扱うことで武器にできるのです。
ちなみにわたしのミスiDを受ける目的は変わっていません。ちやほやされるためです。一昨年、昨年などに語ってきたその他の高尚な目的は全てフェイク、捏造です。なぜミスiDなのかというと他ではニートはちやほやされにくいからです。それをつまらないとまとめてしまえば確かにつまらないな、と感じてしまいますね。
しかし、正直この目的を恥じてはいません。みんなそんなものだと理解しているから。(強引にまとめてしまいますが)これまでもそういった目的で受けて受賞している人はいくらでもいるから。そうじゃない立派な目的の人の方が上なんてことは無い。それにわたしのゴール、「ちやほやされる」には終わりがありません。わたしは一過性の愛ではなく「愛され続ける」ことを望みます。そのためには努力し続けなければいけない。努力し続けたい。ミスiDが終わったあとでも立ち止まりたくないと思っています。その意思はミスiDにおいてとても大事な事ではないでしょうか。
3年目ですから色々な人を見てきました。結局、ミスiDそのものをゴールとしてしまうとだめなんですよ。観衆も選考委員もそういう人をいつまでも応援したいという気持ちにはならない。送り出してあげたいという気持ちにはならない。そういう意味で卒業式なのだと思います。ミスiDのその先を見通せないのなら、ミスiDで注目を集める人物にはなりにくい。
(初めの方で言ってますが本当の天才はわたしのようなものの屁理屈なんて飛び越えて結果を手にして過ぎ去ってしまいますので、この文章で書かれているようなことを意識する必要は無いと思います。わたしは天才じゃないから考えなきゃいけないと思っています。
これで2人の掲げた3つの議題を網羅できたと思います。わたしはひとつとても思っていることがあって、2人は語気の強さはさておきとても親切ですよね。わたしならこんな手引書のようなものライバルに見せたくならない。奮起させて手強いライバルを増やすのが嫌なのです。この記事の公開も迷いました。でもおそらく2人はわたしのような卑怯者と違って真剣勝負がしたいのでしょう。こちらはこれだけの熱量でやってるのにお前はそんな生温いことを言っているのか、と、簡単に言ってしまえばそういうことなのではないかと思います。
正直、ただの馴れ合いは嫌いです。上辺だけの励まし合いだとか、反吐が出る。それでもわたしが皆と仲良くしている、したいと言っているのは何故か。
それは、自分にいい影響を与える人間をもっとたくさん身の回りに置いていたいからです。馴れ合いと呼ぶには真剣すぎる議論や、中身のある優しさ、全て大事にしたいから。大事にして自分の財産にしたい。友達が財産って、なんか響きも素敵じゃないですか。
もちろん他人から搾取するだけしようと思ってる訳ではなく、どうしたらいい影響を与えてくれる人物がわたしの近くにいてくれるかと考えると、結局わたしも相手にいい影響を与える人物でなければと思うのです。そうすれば相乗効果も相まっていい環境が築ける。環境って与えられるだけのものでは無いのだと思います。ある程度、家庭環境だとか自分の能力だとかは変えられませんが、行動を起こすことでより良い環境を作ろうとすることは出来る。
そんなわけでわたしはいつも真剣ですし、優しさを忘れない。適当な優しさを投げつけるのではなく全ての優しさに意味を持たせる。それくらいの努力はしています。努力をする人間の周りにはエネルギーがある。ミスiDを、エネルギーが満ち満ちている場所にできたらいいのかもしれないですね。
ある人がわたしに言ってくれました。「自分はミスiDを文化祭みたいなものだと思っている」と。確かにと思ったしわたしも前はとてもその気持ちが強かった。だけど正直わたしはその気持ちを忘れていたのかもしれない。戦いに集中してしまって楽しむことを忘れていたのかもしれない。戦いは戦いだけど、もっと楽しく戦えたらいいな。ミスiDに依存しないようにしたい、とか言って結局結構依存してたのはわたしなんですね。
わたしはまだ考えが至ってないところがたくさんあると思います。でもその至らなさを受け入れてまた分析できる。あなたはこれらの文章群を読んで、何を感じましたか?何故そう感じましたか?一番心を揺さぶったのはどの文でしたか?分析してみたら面白いと思います。わたしはそういうことするの大好きです。