『10年目のミスiD―ミスiDの再定義』から受けたもの
【速報】改訂版書きました。こちらの記事は正直勢いで書かれてて尖ってて読んで不快になる人が出てくる文だとおもうので、そういうの嫌な人は改訂版だけ読んでくれたら幸いです!
まずは、わたしと同じくミスiDにエントリーしているあめさんとくそねみねむ助さんの記事を読んでもらいたいと思っています。この2人の記事を読んで感じたことが引用RTだけじゃ語りきれなかったから、ここに来ています。
2人の記事に沿ってわたしも文章を書こうと思っているので(別タブで2人の記事を開いています)、この記事を読みながらでも構いません。
(正直、本当の天才たちは読まなくていい文章だと思っています。本当の天才は努力せずとも容易に結果を手にしてしまう。しかし我々のような凡人がミスiDで戦っていくには、2人の言葉はとてもいい道標になると思っています)
まずわたしの話をしていいですか。
わたしって、分析がとにかく好きです。
「なぜこの言葉はこうなのか?」
「この人は何を思ってわたしにこう言ったのか?」
「わたしは何に影響されてこんな気持ちになっているのか?」
おそらく中学生くらいの頃からずっと分析し続けています。幸いわたしの手元にはTwitterという世界があったので、文章にしては世に出して、世に出したものを客観的に見てまた分析して、を繰り返してきました。ミスiDをきっかけにはじめたnoteではもっと長い文章をいくつも書きました。
(しかし一部わたしの文章は言い訳の側面があまりにも強かった。自分が大きなショックを受けて混乱した時、惨めになった時、いつも文章を書きました。自分が如何に可哀想な存在でないかということを書きました、今回はそうならないと願いたい)
分析と言っても、ほとんどこじつけであります。ひとの心などわかるわけがない。自分の心だってわからないのに。「そうである」と決めつけることで無理やり飲み込んでを繰り返していたのでした。
ミスiDのこともそうです。わたしは何度もミスiDのことをnoteに書きました。単純に、ミスiDを分析するのが楽しかったから。分析してもしつくせない、分析結果を出しても直ぐにミスiDというものは変わっていってしまう。わたしにはうってつけの暇つぶしのように感じました。でもわたしはいつも自分の都合のいいように解釈し公開して、頭を使ったらお腹がすいたと何かを食べるのでした。今回は、人の解釈を分析するといういつもはやらない特殊なことをするので、現時点で既に頭をフル回転させています。
長々と申し訳ない、本題に入りましょう。
あめさんの文章は自身に向けて、思考を整理するといった形で(とはいえ公開する文章なので人に対して伝えようとすることも忘れず)書かれていて、ねみねむさんの文章は確固とした自分を持って、読む人に対してはっきりとものを申していました。しかし形は違えどどちらも2人の通話の中で話していたであろう同じことをテーマとして書いていました。
物事は全て立体です。生き物の目がふたつあるのはなぜだと思いますか。シマウマなどは視野が広がるからという理由が大きいと思いますが我々人間にとっては「立体感、遠近感を得るため」というのが主な理由です。物事を表した文章なども同じで今回ふたつの視点から読んで、2人がどんなことを話したのかどんなことで共鳴したのか、2人の関係性を感じることが出来ます。一方だけでは分からなかったことです。
わたしもあまり頭がいいわけではないので、どちらも難しいことを書いていると感じたのだけれど分からなくても読み進めることをおすすめします。
ひとつめ、ミスiDそのものについて
ここでまた自分の話をしてしまうのですが、わたしはとにかく怖がりな性分で、嫌われるのが怖くて本音で喋れないことが多いのです。言ってることはひとつも嘘じゃないけど、過激なことや本当に心の奥で思ってることを言って腫れ物扱いされるのが嫌だったのです。過去にそういうことがあったから。しかし2人の言葉を飾らず綴った文章を読んで、本音で喋らない自分を恥ずかしく思いました。なので今日は本音の限りを尽くして熱烈に分析したことを語ろうと思います。
わたしが多くのミスiDエントリー者に思っていることがあります。それは
「クッソツマンネェ~~~~!!!」
ということ。ここに関して完全にねみねむさんに共感しています。ただ同じでないのはわたしがわたしをつまらない存在でないと言いきれない点です。
まだエントリーシートが公開されてないので本文を見せることが出来ないのが惜しいけれど、わたしの自己PRには下記のような文章が含まれています。
わたしの背中に貼り付いた成分表は見られたくない
どうでもいい隠し味が多すぎるからなんとなく恥ずかしい……
あめさんは「人生を、解像度を上げて見せていくべき」というようなことを、ねみねむさんは「今のその結果に至るまでのストーリーは何なの?」というようなことを書いています。
ぐさりと刺さりました。わたしはいつも都合の悪いことを隠して生きてきました。恥ずかしいと思ったこと、言えば嫌われると思ったこと全て隠して生きてきました。
普段の生き方はそれでいいかもしれないし、ミスiDにおいても何もかも、辛いことを思い出してまで全てをさらけ出す必要は無いのかもしれない(それを無理してしなきゃいけないならミスiDに出てメリットはないだろうし)。でも自分というものを人に魅せるために省略しちゃいけない部分だってあるのです。わたしはそういうものも省略してきてしまったかもしれない。これからはそういったこと、考えていかなきゃいけないと思いました。
ただわたしは何者になりたいかという点で間違いなく行動に移しているので、何もしていないように見える、つまりこちら側にやっていることが見えていない人達よりは、観察していてつまらないなんてことは無いと自負しています。
ただわたしは、ミスiDのために努力が絶対必要な訳では無いと思っています。自然体で、自分らしく生きていれば自然と賞を取れてしまう人も過去たくさんいたし。
しかしミスiDを自分の糧にしたいなら話は別。何者かになりたいなら自分からならないとなれない。ミスiDにエントリーしただけで何かになれる訳じゃない。友達を作りたいという目的も十分だと思うけれど、行動しなきゃ友達は作れないし、作った友達が果たして自分にいい影響を与える友達であってくれるのか(友達をそんなふうに選別するのは良くないことかもしれないが、少なくともわたしは悪い影響を与えてくる人は傍に置いておきたくない)、それは自分の行動次第でしょう。努力したり行動したりすることが出来なくてもいいけれど、それで結果が伴わなくて嘆くならそれは仕方ないことです。
ふたつめ、精神疾患について
ひとつだけ確実なことがあって、精神疾患をアイデンティティとするのは完全に間違っているということです。
ミスiDにおいても、その他の世界においても。
精神疾患は疾患でしかない。そしてあなただけのものじゃない。
実はわたしは、2年前のわたしにとって1度目のミスiDのときそれをよく知らず躁鬱病をアイデンティティとして押し出していました。当たり前に落ちて、悔しくてそこからずっとミスiDのことを考えています。今ではあの頃の自分が恥ずかしくて仕方ない。
わたしが、わたし達が精神疾患を通して伝えるべきなのは、ただ自分が精神疾患であるということではない。それと自分との関係性なのです。患った経緯は?患ってどう思った?患って何か影響を受けた?患いながらでも頑張っていることは何?それをちゃんと伝えなければならないのです。
ちなみに2人も同じように書いているのですが、その中でもただ病んだ話って正直観衆は聞きなれていて、面白みがないことも我々は念頭に置いておかなければなりません。病んだ状態で書いた文章や作られた作品ではたまに面白いものが生まれますが、ただ病んだ報告のような話はつまらない。文章を本当に読ませたいなら、話を聞かせたいなら工夫が必要なのだと思います、自分もできているか分からないけれど。とくに読んで欲しいとかでなければつまらなくても自分の好きに書けばいい。でもミスiDはオーディションです。結果を残したいなら魅せ方に何か手を加えるべきだと自戒も込みで思います。
みっつめ、自己肯定感について
自己肯定感、この議題については2人は違ったことを書いているように感じます。それはこの2人がそれぞれ普段からこの言葉を使って何にスポットを当てているのかの違いで、本来この違いこそアイデンティティだなと思いますが、その話は置いておきます。
初めの方で書きましたが、ねみねむさんははっきりと、読む人に向かって言葉を放っています。この議題では「ミスiDに夢見る、社会に適合できない悲劇のヒロインのままじゃマジで戦えないですよ」ということを言っています。正直とても刺さりました。
わたしが最初にミスiDを受けることになったのって言ってしまえば高校を中退してやることがなくなったからでした。他にやることがなかった1年目のわたしはミスiDに全てをかけていました。そして、呆れるほどつまらなかった。
しかしそれからわたしはとても変わったように思います。ミスiDがなくたって続けたいと思うことがたくさんあるし、物事を考えられる深度が年々伸びていく。意味のある行動を、意志を持って出来るようになってきたと思います。
そして、あめさんの文章に書かれているのと同じ方向に変わった部分もあります。ここで出てくる、自己肯定感の上昇です。あめさんはここで『自己肯定感』ではなく『自己効力感』という言葉を使っています。わたしは今ちゃんと意味を調べて初めて知ったのですが、“自己肯定感”は「存在してるだけで価値があると思えているかどうか、いわゆる自尊心」というような意味で“自己効力感”はもっと具体的な、「なにか目的に対しての行動を、自分には出来ると認知しているか」という意味らしいです。ひとつ賢くなりました。
わたしにとってはどちらも上がったように感じます。例えばなにか依頼を受けた時に、自分には能力があるからそれをやり遂げられると自分を信じてあげられる。ミスiDに対しては、自分は観衆や選考委員に飽きられないような人間である、飽きさせないように出来ることがたくさんあると信じています。きっと失敗してしまうから、と何かを諦めることが減りました。自分なんか、と言う頻度が減りました。
これはいい変化で、ミスiDにこれを活かせます。これ自体を見せびらかす武器ではなく、上手く扱うことで武器にできるのです。
ちなみにわたしのミスiDを受ける目的は変わっていません。ちやほやされるためです。一昨年、昨年などに語ってきたその他の高尚な目的は全てフェイク、捏造です。なぜミスiDなのかというと他ではニートはちやほやされにくいからです。それをつまらないとまとめてしまえば確かにつまらないな、と感じてしまいますね。
しかし、正直この目的を恥じてはいません。みんなそんなものだと理解しているから。(強引にまとめてしまいますが)これまでもそういった目的で受けて受賞している人はいくらでもいるから。そうじゃない立派な目的の人の方が上なんてことは無い。それにわたしのゴール、「ちやほやされる」には終わりがありません。わたしは一過性の愛ではなく「愛され続ける」ことを望みます。そのためには努力し続けなければいけない。努力し続けたい。ミスiDが終わったあとでも立ち止まりたくないと思っています。その意思はミスiDにおいてとても大事な事ではないでしょうか。
3年目ですから色々な人を見てきました。結局、ミスiDそのものをゴールとしてしまうとだめなんですよ。観衆も選考委員もそういう人をいつまでも応援したいという気持ちにはならない。送り出してあげたいという気持ちにはならない。そういう意味で卒業式なのだと思います。ミスiDのその先を見通せないのなら、ミスiDで注目を集める人物にはなりにくい。
初めの方で言ってますが本当の天才はわたしのようなものの屁理屈なんて飛び越えて結果を手にして過ぎ去ってしまいますので、この文章で書かれているようなことを意識する必要は無いと思います。あなたが本当に天才であるなら、必要はないんじゃないですか。
これで2人の掲げた3つの議題を網羅できたと思います。わたしはひとつとても思っていることがあって、2人は語気の強さはさておきとても親切ですよね。わたしならこんな手引書のようなものライバルに見せたくならない。奮起させて手強いライバルを増やすのが嫌なのです。この記事の公開も迷いました。でもおそらく2人はわたしのような卑怯者と違って真剣勝負がしたいのでしょう。こちらはこれだけの熱量でやってるのにお前はそんな生温いことを言っているのか、と、簡単に言ってしまえばそういうことなのではないかと思います。本当にこんなことを言ってしまっていいのか、と思うのですが今年のエントリー者(まだ公開になってないので名乗り出ていない人も多くいると思いますが)のほとんどって『ただ出ているだけ』のように感じます。被写体活動をしていたり絵を描いたりnoteを更新したりしていても、ただやっているだけのように感じてしまう。もちろんただやっているだけ、ということがどれだけ大変なことかもわかっています。行動に移すだけで大変ですが、それを武器にして戦うなら『そう見えている』レベルではダメなのだと思います。
正直、ただの馴れ合いは嫌いです。上辺だけの励まし合いだとか、反吐が出る。それでもわたしが皆と仲良くしている、したいと言っているのは何故か。
それは、自分にいい影響を与える人間をもっとたくさん身の回りに置いていたいからです。馴れ合いと呼ぶには真剣すぎる議論や、中身のある優しさ、全て大事にしたいから。大事にして自分の財産にしたい。友達が財産って、なんか響きも素敵じゃないですか。
もちろん他人から搾取するだけしようと思ってる訳ではなく、どうしたらいい影響を与えてくれる人物がわたしの近くにいてくれるかと考えると、結局わたしも相手にいい影響を与える人物でなければと思うのです。そうすれば相乗効果も相まっていい環境が築ける。環境って与えられるだけのものでは無いのだと思います。ある程度、家庭環境だとか自分の能力だとかは変えられませんが、行動を起こすことでより良い環境を作ろうとすることは出来る。
そんなわけでわたしはいつも真剣ですし、優しさを忘れない。適当な優しさを投げつけるのではなく全ての優しさに意味を持たせる。それくらいの努力はしています。努力をする人間の周りにはエネルギーがある。ミスiDを、エネルギーが満ち満ちている場所にできたらいいのかもしれないですね。
この一連の記事で何かに気付けた人ってほんと幸運ですよ。わたしはこれだけのことを自分で分析するまで2年かかりました。みんなよかったですね。