「遺体」はどのように構築されているか――石井光太『遺体 震災、津波の果てに』(新潮文庫、2013年)
19,000人ほどの死者・行方不明者――関連死を含むと23,000人ほどになる――を出した東日本大震災。それまでそれぞれの場所で生きてきたさまざまな人びとが地震と津波によってほぼ同時にいのちを失い、死者となった。本書は、そうしたたくさんの死者たちの出現に直面し、うろたえたじろぎながらも「死者たちの尊厳」を守り抜こうとした被災下の職業人たち――遺体安置所ボランティア、医師、看護師、市長、市職員、消防隊員、自衛隊員、海上保安庁職員、葬儀社、僧侶など――の見えざる営為を、当人たちの語りをもとに再現したルポルタージュである。著者は、海外の紛争や貧困の取材で知られるノンフィクションライター。
舞台は岩手県釜石市。この漁業と工業の街では、約1,300人の方たちが亡くなったり行方不明になったりした。一見無機質なこの事実の陰には、瓦礫のなかからむきだしの亡骸を探し出し、搬送し、安置所に集め、それが誰かを調べ、その存在を家族に知らせるとともに、段取りをつけて弔い、火葬にふすといったさまざまな職種の人びとの知られざる働きが存在する。しかもそれらは、集められた遺体が腐敗しないよう、春が来るまでの数週間のうちに急ぎなされねばならなかった。彼(女)らのそうしたしごとがあってこそ、人びとのむきだしの死とその亡骸が「遺体」となりえたのだということが本書を読むとよくわかる。
要するに「遺体」とは、人権や尊厳が(死した後も)その人に投影されているということを示した表現だ。釜石の人びとが震災前につくりだし維持し続けてきた「人権や尊厳」をめぐる営みの蓄積があってこそ、あのような非常時にあっても本書の登場人物たちはそれを続けてなすことができたのだろう。もし災前のそうした蓄積――〈文化〉といってよいだろう――がなかったら、むきだしの死とその亡骸たちは「むきだし」のままに廃棄されてしまっていたにちがいない。それは果たして〈人間の死〉といえる代物だろうか。そうした死を許容するようなまち/地域を、果たして私たちは〈社会〉と呼ぶことができるだろうか。
翻って、災後13年目の私たちの現状に目を向けてみる。現在は、来るべき首都直下地震や南海トラフ地震の〈災前〉でもある。その際には、東日本大震災の死者・行方不明者をはるかにしのぐ死者・行方不明者が出ることは確実だ。当然、本書の登場人物たちが直面することになったのと同じ課題に、未来の被災地の人びと――もちろんそこには私たち自身も含まれる――も直面することになる。それが可能となるようなぶあつい「人権や尊厳」をめぐる営為の蓄積を、人びとの単なる群れを〈社会〉へと鍛え上げていく実践の重なりを、果たして現在の彼(女)らならびに私たちはもちえているだろうか。本書が現在の私たちに突きつけているのは、そうした問いであるように思われる。(了:2024/04/14)
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