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「教えること」の条件とは何か。

■「ぷらっとほーむ」の日常風景のなかに「誰かが他の誰かに何か[知識・概念など]を教える」という場面がある。例えばそれは、「受験を控えて教科学習のなかの理解困難な箇所を教えて欲しい」という求めに応えてのことであったり、「日常生活の中でふと疑問に思ったことや語彙について教えて欲しい」というのに応じてであったりする。自分が「教える」側に立つ場合ももちろんあるし、誰かがその立場に立って他の誰かに説明しているのを目にすることもよくある。

■この「教える/教わる」という行為についてこっそり見ていると、「教わる側」と「教える側」の双方ともに満足感を得て行為が終了する場合と、どちらかの側に「よくわからないままだった」とか「説明が通じなかった」とかいった不全感が残ったまま行為が終了する場合とがある。「教える/教わる」の上手/下手ということなのであろうが、では「教えること」が上手/下手とは、そしてまた「教わること」が上手/下手とはいったい何を指すのであろうか。

■今回は「教えること」に限定して考えたい。私見だが、「教える」側が「上手」だと認められるための要件は三つあると思う。一つ、伝えるべき「何か」について知悉していること。二つ、伝えるべき「何か」を別の言語で説明するために必要な、その「何か」の置かれた文脈や位置づけが理解できていること。三つ、伝える相手の側の知識量や理解力、価値観などの前提について理解できていること、あるいはその場のやりとりの中でそれらを見抜くことができるということ。

■ありがちなのは、第一の条件――例えば、学歴や学校歴――を「優秀な教師」の条件だと見なすような誤解である。だが、自分と同じ文化に属する人びと向けの内輪の言語しか使えないようでは教師失格である。異文化の人びとに、自分の所属する文化の「意味」を伝達できる力、翻訳能力こそが必要だ。これが第二の条件にあたる。だがそれでもまだ足りない。「翻訳」には、伝えたい相手に合わせた即興のオーダーメイドな言い換えが不可欠である。これが第三の条件だ。

■「文化」「言語」「翻訳」という語彙をあえて用いた。「大げさな」と思うかもしれない。だが、わたしたちは一人ひとりが重なり合うことのない「意味論」の小宇宙みたいなものだ。その意味で、わたしたちはお互いが「異文化を生きる異邦人」であり、そのやり取りは「異言語間の翻訳」である。「教えること」も然り。結局のところ、そこで試されているのは異文化コミュニケーションの力であり、「バイリンガルであること」が求められているのである。

※『ぷらっとほーむ通信』042号(2006年10月号) 所収

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