「指導=教育機関」としてのフリースペース?
SORAで活動しているとよく、「センセイ」と呼称される場面に出会う(その大半は、教育関係者からのものだ)。この言葉には「SORAのスタッフ=教育・指導に従事している者」という前提があるように思う。確かにそういう捉え方がSORAの内部にも全く存在しないわけではない。関係者の大人どうしで話している場面でも、常識的に見て社会通念上不適切と思われるような子どもたちの振舞いに対し、「指導すべきではないか」等という声があがることがある。だが私(そしてこれまでのSORA)は、この「指導=教育」というスタンスを極力避けてきた。なぜか?
よく言われることだが、「指導」や「教育」という言葉が前提にしているのは、「教え導く側=完全で成熟した存在」と「教え導かれる側=不完全で未熟な存在」という二つの立場である。「教育者」「指導者」としての大人は当然前者であり、子どもは後者である。この枠組みを前提すれば、フリースペースのスタッフも前者に入るわけだ。確かに、「世界や社会や人間に知悉した年長の指導者が未熟な年少者を適切に教え導く」という図式には、ある種の「正しさ」があると一瞬は思う。だが社会は、そして(人の)関係は、そんなに単純なのか。そんなに平板なのか。
ちょっとでも想像力を働かせれば理解できることだと思うが、この極度に複雑化した現代社会においては、世の中のあらゆることに特権的に知悉した者など存在し得ない。つまり、一方的に他者を教え導くことができる者などいないということだ。誰であれ、他の誰かから何かを学びながら生きているわけだし、誰かに何かを発信しながら生きている。その相互関係の中でしか、「成熟」なんていうものはあり得ないのではないかと思うのだ。それが大人と子ども、「教育者」と「児童生徒」にも該当するような社会になってきたというだけの話だ。
もちろんこういった原理的な語りに対して、どのような反論が寄せられるのかも容易に想像がつく。言っておくが、「学校」や「教育」や「指導」や「センセイ」を否定したり批判したりする気など私にはまるでない。ただ、それが全てということでやってきたこの社会に、ちょっとばかり息苦しさやら絶望やらを覚えるような感受性の層が少しずつ生まれつつあるということで、そうした層の一員として、自分たち自身のためにも別の選択肢を必要と感じ、フリースペースという居場所づくりに関与しているわけだ。
以上のような理由から、SORAでは「指導しないということ」を原則としている。誰であれ、得意なこと苦手なことがある。いっしょに過ごし関わり合う日常の中で、互いが必要と感じた場面において、互いに教えあい学びあうこと。そうやって、互いに支え合うなかで共通の前提を少しずつ積み重ねていくということ。何より、自分なりにいろいろな試行錯誤を重ねつつ、じっくり自分の考え方と向き合い、そしてまた(自分と向き合うための鏡として)他者のもつ情報や思考法にアクセスしたいと思うこと。そのような学びへの動機づけや自発性こそが、「あえて指導しないこと」の最大の果実だと感じる。言うなれば、フリースペースとは、「あえて指導=教育的でない場をつくる」という意味においてのみ、教育的なのだ。
(『SORA模様』2002年9月 第17号 所収)
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