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平成のカナリアたち――「東北の春」に向けて(21)

高度成長を終わらせた石油危機の年に生まれた団塊ジュニアは、平成元[1989]年を15歳、平成30[2018]年を45歳というキリのいい年齢で迎えた。義務教育をくぐりぬけ、自分の意志で生きはじめてからの30年間が、1973年生まれの筆者にとっての「平成」であった。

大学入学が平成4[1992]年で卒業が平成8[1996]年。その頃には、世間はすっかりバブル後の氷河期で、筆者と同世代の多くの者たちは「フリーター」として社会を漂流していくこととなる。やがて非正規雇用が解禁され、格差や貧困のひろがりが発見されていくようになるが、それも「自己責任だ、死ね」ということになった(年間自殺者数が3万人を超え始めるのが平成10[1998]年、現在まで累積約60万人でこれは山形県人口の約半分の規模)。

要するに、「平成」の30年間というのは私たち団塊ジュニアにとっては、社会から排除・廃棄された日々を意味しているわけで、10年ほど前の流行語「ロスト・ジェネレーション」そのものが私たちなのであった。

さて、そんな団塊ジュニアのひとりである筆者は、平成13[2001]年、27歳のときに、ひょんなことから排除・廃棄された人びとを支援する市民活動と出会い、そうしたとりくみに身を投じるにいたった。当初は不登校の子どもたちを支援する居場所づくりの活動であったが、数年を経て、「居場所が必要なのは不登校の子たちだけではない」との気づきにいたり、当時徐々に社会的弱者へと陥りつつあった「若者」全般へと対象を拡張することとなった。若者支援NPO「ぷらっとほーむ」のとりくみの始まりである。平成15[2003]年のことであった。

それから15年。同世代の苦難に伴走しながら活動を続け、気がつけば、当初は「余計なことを」と妨害的でさえあった行政やメディアの態度が変転。その一角に席を準備されるまでにいたった。地域は、社会は変わる。たとえ岩盤のようなそれらでも、声をあげ、動き続けさえすれば変わっていく。そんなことを実地で学ぶことのできた15年だったと思う。

とはいえ、地獄のような状況は、私たちのような草の根NPOのとりくみごときではびくともしない。「平成」以後も、それらはより規模を増して社会の各所に吹き荒れることは確実だ。災害、貧困、格差、暴力、エトセトラ。これまで私たちのようなマイノリティに限定で訪れた地獄は、これからはマジョリティ相手に拡大再生産されることになるだろう。要するに私たちはカナリア――炭坑労働者が坑道に連れていくというあのカナリア――だったのだ。平成のカナリア。



さて、そんなカナリアは「平成」後の焼け野原で何を思うか。実は、「平成」後半の世相に伴走するようにとりくみを続けてきた「ぷらっとほーむ」を閉じることとなった。生成する問題の多様化・複数化をうけ、私たちの活動も多様化・複数化していくこととなり、それらを「ひとつの組織」で統御していくのが困難となった。おそらく今後も多様化・複数化し続けるであろう状況に適切に対応していくには、とりくみの主体を複数化し、そのそれぞれが自由な発想と行動とで試行錯誤を続けていくしかない。そう考えた末の決断である。

かくして「ぷらっとほーむ」は令和元[2019]年の秋に解散し、その跡地で三つの後継グループがそれぞれの活動に改めてとりくんでいくこととなった。筆者が現在とりくんでいる学びの場づくりNPO「よりみち文庫」はその継承グループのひとつである。解散は端的に言って「ぼくたちの失敗」だが、しかしその焼け跡から後継の諸活動が芽吹いている光景に希望を見出せないわけでもない。それは、これから始まる「令和」の世にどんなふうに育ち、どんな花を咲かせ、実を実らせるのだろうか。〈春〉を求めて、私たちのとりくみは続いていく。

(『みちのく春秋』2019年冬号 所収)

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