「スタッフの消耗」問題をこえて。
■かつて、「言語の貧窮」こそが「居場所」関係者(もっと言うと、若年支援系NPO)の抱える課題ではないかと述べた。「言語の貧窮」とは、活動の当事者たち(自分らをも含む)が自らの行為――「居場所づくり」や「若年支援」――の意味や価値、それが社会的に果たしている機能などについて、反省的に自己言及するための語彙あるいはそのためのしくみを、自身の活動の内部に十分に確保できていないという事態を指す。それがもたらす「問題」が、私たちを蝕み続けている。
■その「問題」とは何か――それは、「スタッフの消耗」という「問題」である。今年4月に福島、山形の5つのフリースクール/フリースペース(あるいはその準備会)が参加して行われた「“子どもの居場所”合同研修会」でも、現在それぞれの活動が抱える緊急にして最重要な「問題」として、それが提起されている。とりわけそれが、長期にわたる活動であればあるほど、「スタッフの消耗」の度合いは大きいものであるように、私の目にはうつった。
■ではなぜ、「スタッフの消耗」が生じるのか。以前、私は「好きなことだからこそ“逃げ場”がなくなる」のではないかと書いたが、それ以外にも要因はある。詳述は避けるが、私たちの活動にはそもそも、外部から行為を規制してくるような「制度的な枠」というものが存在しない。自分たちが行う活動の内容やそうした行為の根拠となる意味づけ、価値前提は、基本的にすべて「自己申告制」であり、自らの行為を縛るものは自分たち自身による「自己定義」以外にはない。
■そうした徹底した自己準拠というありかたには、もちろん「自分たちのことはすべて、自分たちで決めることができる」という利点がある。だが、「すべて、自分たちで決めることができる」は、理想価値追求型の活動にあっては、「すべてを理想的なかたちに構築すべし」といった、ある種の「言説の檻」として脅迫的に作用してしまいがちだ。そうした脅迫的な場では、追求すべき「理想」の目標水準を下方修正することは相当に困難である。これは容易に想像可能だろう。
■しかもそうした場所には、理想や規範の言語――「大きな物語」――が容易に入り込む。「居場所づくり」でいえば、「子ども」による「自由、自治、個の尊重」を過度の強調する類の言説がその典型だ。はっきり言おう。「東京シューレ」を起源とする、この「フリースクール物語」こそが、私たち地方の「居場所」を呪縛する「言説の檻」として機能しているように、私には思える。言語の呪縛をとくには、私たち自身が自らの言語に徹底して自覚的であるしかないと思うのだ。
※『ぷらっとほーむ通信』027号(2005年07月号) 所収