22.サイドカーに柴犬
「一区、省吾。二区、哲哉。三区、孝樹。四区、良豪。五区、亮。六区、大志。最後の七区は賢人。これでいく。区間賞を獲れなかった人はペナルティだからな」
盛男さんが悪戯に笑った。多分、鬼の筋トレだろうな。
胸が鳴っていた。ペナルティの畏怖じゃない。これは週末の駅伝大会から来る高揚感だ。
やっと涼しさが渡り鳥のサシバと一緒に風に乗ってくる頃、
と言ってもまだまだ夏の残るこの季節に、この島でも駅伝シーズンは始まる。
だけど、駅伝部のある高校が二校しかないこの島に高校生の大会はない。週末の大会も、中学生チームと社会人の地域別のチームで競われるもので、僕ら高校生チームは特別ゲストとして出場する事になった。
この大会は県予選の前哨戦だ。
県予選は二週間後。
少しでも実戦の雰囲気を感じさせようと盛男さんが出場を頼み込んだ。ただ、僕らのチームと他のチームでは実力差があまりにもあった。社会人のチームがあっても、本格的な練習をしている人は少ない。中には出場が決まってから練習を始める人さえいる。
そこで盛男さんは提案した。
区間ごとに1分のハンデを設ける。七区間あるので合計7分のハンデ。
一区のスタートから7分後に僕らのチームがスタートする事になってしまった。
さらに盛男さんは出走順にも悪戯を仕組んだ。
新藤を三区の2㎞、キャプテンを四区の3㎞、
というように速い人を短い距離の区間に置く出走順にした。
それで一番距離の長い一区は省吾、アンカーの七区は賢人、僕は二番目に長い二区の4㎞になった。
駅伝部の鈍足三人組をこの区間にしたのも盛男さんに考えがあった。
去年、この大会に僕と賢人と省吾は出場した。この三人は去年と同じ区間にされている。
一年前と実力がどれだけ変わっているのか。
それを知る為だった。
大会当日、省吾からタスキを受け取った僕は最初から飛ばした。
長い直線になっても前には誰にもいない。いつまで経っても人影は見えない。そりゃそうだ。7分も遅れてスタートしているしね。
「哲哉、良いペースだよ」
すぐ後ろから盛男さんの声がする。『伴走』と貼紙が貼られた原付バイクに盛男さんは跨っている。この大会は、監督のバイクでの伴走が許されている。
「ばう!」
犬の鳴き声だった。すぐ後ろだった。反射で、バッ、と一瞬だけ振り向いた。
「何で後ろを向く。お前は最後尾だよ。前だけ向いて走れ」
説明したかった。
盛男さんのさらに後ろにサイドカー付きのバイクが見えた。
サイドカーには黒い柴犬が乗っていた。その柴犬が舌を出して僕を凝視していた。
「よし、中間を過ぎたぞ。うん、いい記録だよ」
ここで僕は脚のギアを上げた。今日は調子が良かった。もっといける。
「いい走りだ!素晴らしいぞ哲哉!」
気分が良かった。盛男さんは気分を乗せるのがうまい。いいタイミングで声を掛けてくれるし、声には背中を押す力があった。その声を聞くだけでとても心強かった。
「いいぞお、哲哉!速い!お前は凄い!」
ドキッとした。
盛男さんの声じゃなかった。
父の声だった。
興奮した声だった。かなり近くにいる。
「あれ?ああ、どうもこんにちは。応援ですか?」
「はい、居ても経っても居られなくなって来ちゃいました」
「心強いですよ。いい走りしてるでしょう?」
「びっくりです。こんなに速くなっていると思いもしませんでした。もうこれはコーチの指導の賜物ですよ」
「いやいや滅相もない。お、あはは、ワンちゃんも一緒に応援ですか」
すぐ後ろでそんな会話のやり取りが聞こえる。
僕はさらに脚を強く蹴り上げた。その声を振り払う為に。
「お、まだ余力があるな。いいぞ哲哉」
「コーチ、僕は本当に嬉しいですよ。まさか哲哉がこんなに速くなるなんて──────」
「ばうわう!」
声は追ってきた。父の声が入ってから息が乱れ始めていた。息を整える事に集中した。でもシバが吠えてきて邪魔してくる。
「哲哉、リズムが乱れてるよ。呼吸から呼吸から」
わかってる。さっきからそれを意識している。
「そうだぞ。コーチの言う通りだぞ哲也。焦る気持ちは分かるけどな、まずは──────」
「ばうわう!」
頭を掻き毟りたかった。もうっ!邪魔なんだよ!
カーブを曲がった。すると、直線の先に賑やかな影が見えた。
中継所だった。もうすぐだった。意識しなくても脚は前に進んだ。
「よおし。このままいけ!」
「走れ!ラストだぞ!」
「ばうわう!」
騒がしい三つの声に押されながら僕は突っ走った。
新藤が見えた。新藤は笑顔で大きく手を振っていた。
「哲哉!ラスト!」
タスキを外した。歯を食いしばって腕を懸命に振った。
何故か新藤が声を上げて笑っていた。視線は明らかに僕の後ろだった。後ろから、ひんひんひん、と興奮した犬の猫なで声がする。
両腕を新藤に向かって突き出した。新藤がタスキを掴む。
「ナイスラン!」
新藤が背中を叩いた。何か声を送りたかったけどそんな余裕はなかった。新藤が前を向いた瞬間、新藤の身体がギュンッと前に伸びた。強い腕の振りだった。一歩のストライドは大きかった。あっという間に新藤の背中は小さくなっていった。
「うわ、すげえ」
走り終わった中学生からそんな声が漏れた。皆が度肝を抜かれた顔をしている。
「あはは、可愛い」
そんな声も聞こえた。小さくなっていく新藤にサイドカー付きのバイクが重なる。
サイドカーの柴犬は立ち上がっていた。器用に前足をフロント部分に乗せてお尻を向けている。露わになった後ろ姿から尋常じゃない勢いで激しく振られる尻尾がよく見えた。
☆ ☆ ☆ ☆
「哲哉、乗って」
すぐ近くで停まったワゴン車から省吾が顔を出してきた。
運転しているのは顧問の友利先生だった。友利先生は僕らの担任だ。担任は忙しいから、と言って練習には顔を出さない。いつも教室で顔を合わせているのに久々に見た気がした。
助手席にはこっちに向かって手を振る椿もいた。無邪気な笑顔に吸い込まれそうになった。
後ろに乗り込むとワゴン車はすぐに出発した。
窓を開けた。
荒々しい風がまだ汗の残る顔を冷やしてくれた。日差しを浴びたサトウキビの葉が青々と茂っていて、見上げると突き抜けるほど真っ青な空が広がっている。
サトウキビ畑がずっと続くこの景色がやけに鮮やかに見えた。もの凄く気持ち良かった。
駅伝を走り終わった時の、この時間が僕は大好きだった。
走り終えた後の、この晴れやかな気持ちは最高のひと時だ。特に緊迫感を味わえる試合になるとこの時間は凄く格別なものになる。
走る前の緊張感や不安な気持ち。この溜まりに溜まった毒素が、走った瞬間から体内で沸騰するアドレナリンに混ざって身体の外へ汗と共に吹っ飛ばされる。
緊張から解かれた身体は開放感に満たされて、大量の汗を出した身体はデトックス効果でスッキリ爽快になって、さらに程よい疲労感は身体の余計な力をほぐしてくれる。それでいて身体の奥では、走り切った達成感に充実感に高揚感と、熱い気持ちが心を心地よく温めている。
そして、この状態で浴びる車窓からの風が、もう心地のいいこと・・・この感覚は駅伝を走り終わった人にしか感じる事はないと思う。
そんな格別な気分を味わいながら僕らは車に揺られた。
新藤、キャプテン、亮先輩、大志先輩と無事に走り終えた皆を拾っていくと、車は最短ルートをかっ飛ばしてゴールの陸上競技場に戻った。
その車中、話題は盛男さんと一緒に伴走するサイドカーに乗った柴犬になった。
やっぱりインパクトが大きかったみたいだ。皆タスキを受け取る時に目を奪われたみたいだ。そりゃそうだ。サイドカーに乗った犬が走者のすぐ後ろにいたら嫌でも目に入る。
先輩達は運転していたサングラス姿の男が僕の父だと分かっていなかった。先輩達は笑いながら話していた。たまに吠えてきたみたいだった。椿と先輩達が楽しそうに話していて、そんな中で新藤がニヤニヤした顔で僕を見てくる。
それにしても父の行動には呆れてしまう。帰ったら叱ろうと僕は決めた。
陸上競技場に戻ると、僕らはゴール付近で賢人を待った。
賢人は先頭で戻ってきた。たくさんの歓声と拍手に迎えられた賢人は悔しいけどカッコよかった。
結果は僕らの圧勝だったけど、僕らは特別参加の非公認チームなので表彰はされないし、記録も残らない。それでも係員が計ってくれた記録を見せてもらうと、僕の記録は去年より一分以上も速かった。
冗談かと思った。たった一年でこんなにも速くなるとは思わなかった。省吾と賢人も去年の記録よりかなり速い記録だった。
盛男さんはミーティングで僕らを褒めてくれた。盛男さんは上機嫌だった。今日の結果は予想以上の収穫だったみたいだ。新藤と先輩達は短い距離だったけど、それでも納得の走りをしたみたいだ。
雰囲気が良かった。皆の顔は晴れ晴れとしていた。
「再来週もこの調子でいくぞお!」
キャプテンの声を聞いて、心臓が騒いだ。
次は二週間後の県予選。
僕はどの区間を任されるんだろう。
不安もあるけど、ワクワクもしていた。本番が楽しみでしょうがなかった。こんな自信があるのも、今日が満足のいく走りができたからだ。今日の走りは間違いなく県でも通用する。僕は速くなっている。
「ねえ、盛男さん。訊きたい事があるんだけど・・・」
ミーティングが終わると、椿が盛男さんに近寄った。その後ろには先輩三人もいる。
「柴犬をバイクに乗せてた人って誰なの?」
遠くからでも聞こえた。
僕は今いる場所から離れた。
とうとう知られてしまう・・・・。
今の心境はこれからズボンを下ろされるような感じにも似ていた。
盛男さんが僕を指さしたのが見えた。
バッと僕を見てきた椿の顔が何故か恐く見えた。
つづき
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