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10.トレイルとは何ぞや


 今日の集合場所は意外な所だった。

 学校から帰ると、ガレージにいるシバの頭を撫でてから外に出た。家の真向いの畑を抜けると、そこが今日の集合場所だった。

 今日は学習の森でのトレイル練習と聞いた。

 僕はトレイルという言葉を知らなかった。トレイルは、森の中とか登山道とかの舗装されてない自然の道を言うそうだ。

 集合場所にはもう皆がいた。そこは少しだけ森が切り開かれていて、車が五台ぐらい停められるスペースになっている。

 なんか皆の視線が冷たいような気がした。キャプテンがじろりと僕を見て言った。

「お前の家、あれなんだろ?」

 キャプテンが指さした先に僕の家がある。ここからでもよく見えた。向かいの畑はサトウキビが収穫されて、遮るものは何もない。恥ずかしかった。

 ガレージの中で黒いのがウロウロ動いている。

 止まった。
 座り込んだ。
 じーっとこっちを凝視しているように見えた。


 ばう!


 吠えた声が風に乗ってやってきた。

 一台のワゴン車が来た。盛男さんが乗っていた。

「荷物はこの中に入れて」

 車を降りた盛男さんが後部座席の扉を開けた。皆が次々とリュックを放り込んでいく。

「じゃあ早速始めようか」

 皆で森の中に入った。

 まず列を作ってジョグから始めた。

 空気がひんやりとしている。

 ちょうどいい涼しさだ。息を吸うと新鮮な空気が肺の奥深くまで入ってくる。普段の呼吸より息を吸えているのが分かる。

 僕はこの森の中を歩くのが好きだった。シバの散歩道としてよく使う。この森に入ると、生まれ変わったような、何か新しい感覚に出会えた感じがして清々しくなる。

 一周走り終わって、各自でストレッチをすると、盛男さんの前に集まった。

 盛男さんは設定タイムを言った。そして「7周走ろう」と言った。

「最後の一周は自分の好きなペースでいいぞ。物足りない人は全速力でもいいからな」

 物足りないわけがない。多分、森の中のコースは1周が2㎞以上はある。それを盛男さんの言ったペースで走るのは、正直、僕には無理だと思った。早くも不安になった。

「じゃあ、一列になって走るよ。他に走ってる人もいるから邪魔にならないように」

 そう言ってキャプテンは走り始めた。僕は最後尾で走った。

 いきなり上り坂だった。その坂道には至る所に木の根が出ている。前の皆がスキップみたいに木の根を飛び越えながら坂を上っていく。皆から充分な距離をとって、下を気にしつつ走った。

 走りづらかった。土の地面は傾いたりして不安定だった。でこぼこして野球ボールぐらいの穴もある。慎重に選んで走っていきたいけど、そうすると皆が離れていく。とにかく遅れないように走った。木の根と陥没した所だけを注意して進んだ。

 しばらくして落ち着いてくると、楽しくなっている自分がいた。

 木の間を抜けて、木の根や木の葉を避けて、穴を飛び越える。色んな障害物を越えながら進んでいくのは刺激があった。

 それと、やっぱり森の中は気持ちいい。普段走るよりも疲れにくかった。きっと新鮮な空気がたくさんあるからだ。どんどん入ってくる。もっと走れる。もっとペースを上げてもいい。まだ筋肉痛は残っているけど、それが気にならなくなるほど楽しかった。

 1周すると、道の分岐点にある木の枝にカゴがぶら下がってあった。

「あれはうちらのドリンクだから自由に飲んでいいからな」と先頭のキャプテンが言った。

 前の賢人が走りながらカゴの中を覗いた。僕も覗いた。カゴの中には8つのボトルがあった。今はそんなに喉が渇いてなかったのでスルーした。息切れはしていない。今日は調子が良さそうだ。森林浴効果もあるかもしれない。僕は快調に走った。

 でも、そう長くは続かなかった。

 3周目に入った辺りから息が少し乱れ始めて脚が疲れ始める。

 筋肉痛も相まって脚が重く感じた。急な上りが辛くなってきた。それでも何とか遅れないようについていった。

 4周目に入る所で僕はドリンクを飲んだ。

 飲んだのは僕だけだった。ドリンクを飲んでいる間も皆はどんどん先を行く。

 ボトルをカゴに戻して皆を追いかける。前にいる賢人から息切れが聞こえた。でもリズムは良くて余裕はありそうだった。それに比べて僕の呼吸は乱れている。足裏の感覚が鈍くなっている。これだと、でこぼこの地面にアンテナを張れない。気を張らないと地面に足を取られてしまう。気を引き締めて走った。

 でも、だんだんと気持ちは後ろ向きになる。このままだと絶対に走り切れないと思った。まだ半分なのに脚が思ったように上がらない。奥の方で大人しくしていた筋肉痛が騒いでいる。

 前の賢人の背中が離れていく。ここで離れたら気持ちが切れると思ってピッチを上げた。

 でも長くは続かなかった。とうとう賢人の背中が見えなくなった。目標を見失って、さらに脚は重くなる。どうにかしたい。でもピッチを保てなかった。

 長い一直線の道に入って、遠くにいる賢人の背中が見えた。その先の省吾も見えた。でも、その先はいない。省吾と賢人も遅れている。その二人よりも僕は遅れている。新藤はもうどれくらい先を行ってるんだろう。

 6周目に入ると、ドリンクカゴの所で盛男さんが立っていた。

「哲哉、乱れてるぞ。背中が曲がってる。リズム良く。遅くてもいいから背筋とリズムを意識して」

 そうしたいけど身体が全然言う事を聞かない。

「背筋を伸ばす。呼吸を意識して。きついけど同じリズムの呼吸で」

 大きな声が背中に来る。呼吸を整えるも、少し経つと何も考えられなくなって乱れた呼吸になる。

 足が地面に取られるようになった。傾いた地面に抵抗できなくなった。何度も足を取られて身体がぐらつく。

 上り坂で木の根に躓いた。踏ん張れなくて派手に転んだ。起き上がるのも一苦労だった。手に付いた泥を落として走り始める。下りになるとそのまま前につんのめりそうだった。何度もつまずいてふらつきながらも何とか進んだ。

 ラスト1周だった。

 ドリンクカゴの所に盛男さんが立っていた。その後ろにドリンクを飲む賢人と省吾もいた。

「哲哉、ストップ」

 盛男さんが腕を出した。

「今日は終わり。よく走った」

 盛男さんの前で立ち止まった。


 助かった。


 あと1周は無理だった。止められてなかったら途中で歩いていたと思う。それほど疲れていた。

「転んだのか?」

 盛男さんは僕の頬を指していた。

 頬を触った。指先に泥が付いていた。

「あ、よく見たら服が泥んこだな」と盛男さんが言った。緑のランニングシャツだから目立ってなかったけど、よく見ると泥まみれだった。

「どんまい」

 賢人がボトルを差し出してきた。渇いた身体はボトルの中身を全て飲み尽くした。ボトルを掴んだまま僕はその場に座り込んだ。こんな長い距離を走ったのは初めてだった。

「うわ、もう来た」

 省吾の向く方を見ると、走ってくる新藤がいた。僕が走り終わってまだそんなに時間が経っていない。新藤より少し遅れてキャプテンが見えた。制限されたペースで走っていた二人に、僕は周回遅れになろうとしていた。最初から本気で走っていたら間違いなく抜かれていた。二人がゴールして少し経ってから亮先輩と大志先輩が競りながらゴールした。ここまでが走り切れたメンバーだった。

「これでも今日はトレイル練習の初日だから控えめにしたんだからな」

 先輩達は10周走った時もあるそうだ。今の僕では絶対に無理な距離だ。今日走ってみて分かった。

 盛男さんは言った。強い学校はもっと厳しい練習を毎日のようにしていると。

 明日も同じ練習内容をする事を考えてみた。僕には無理だと思った。

「これを走り切らないと困る。せめて今日のペースについていけないと話にならんぞ・・・」

 盛男さんの口調はきつかった。顔が見れなかった。

 今までの練習は甘すぎた事が身に沁みて分かった。中学の時は本気で十㎞以上も走った事がなかったし、それで頑張ってると満足していた。

「孝樹、今日の練習はどうだった?」と盛男さん。

「まだ走りたいです」と新藤。

 そりゃあ、こんな差がつくわけだ。

 つくづく自分のこれまでの甘さを痛感した。

 それで全国大会を夢見ていたんだから嗤ってしまう。

 記録で圧倒的に足りないと分かっていた。もっと練習はできたはず。時間も全然あった。それでもやってこなかった。それは何故か。

 こんなに走るとは思ってもみなかったからだ。

 本当に僕は甘く考えていた。賢人も僕と同じ事を痛感していると思う。今まで一緒に練習してきた僕がそう思ったんだから、賢人が思わないはずがない。盛男さんの話を聞く賢人の顔はしゅんとしていた。

「今日走り切れなかった三人にすぐに走り切れとは言わない。だけど、次は今日の自分より多く走れるようにしよう。まだ最初だからな。練習を続けていけばもっと走れるようになる。それを信じてまた練習を頑張ろうな」

 その言葉でミーティングは終わった。皆が盛男さんの車から荷物を取るとワゴン車は颯爽と道路を走っていった。

「哲哉は恵まれた環境に住んでるよね」

 大志先輩が言ってきた。リュックを背負って自転車に跨っている。

「恵まれた環境?どうしてですか?」
「だってさ、陸上競技場も、多目的広場も、学習の森も、歩いてすぐの距離にあるでしょ。盛男さんがこの場所を選んでるって事は、この三つの場所が練習に最適な場所なんだよ。そこの近くに住んでいたらいつでも効率の良い練習できるじゃん」

 それに早く帰れる、と亮先輩が皮肉っぽく付け加えてきた。

「特にここで走れるのはいいよね。コースがある森ってあまりないからね」

 それを聞いて僕は考えてみた。確かに近所に森がある家なんてなかなか無いかもしれない。森があったとしても、大概は獣道だけの、人が入らない森ばっかり。それに比べて、この森は人が入りやすいように整備されている。

「じゃあお疲れさまでした!」

 リュックを背負った新藤が走り出した。

 信じられなかった。あれだけ走ったのにまた走っている。しかも速かった。本当にまだ足りてなかったんだ。どんだけ走れば気が済むんだ。

「底なしの体力だな」

 自転車に跨った亮先輩が呆れたように言った。

「アスファルトの上で走るのは止めた方がいいと思うけどね」

 キャプテンだった。キャプテンも自転車だ。先輩達は道路で走るのを本当に嫌がっている。

「そんなにアスファルトの上を走るのはやばいんですか?」
「当然。盛男さんは正しいよ。短距離選手が道路でダッシュしてるの見た事あるか?」

 納得だった。確かに道路で練習をする短距離選手がいたら、間違いなく故障すると思う。何で長距離なら大丈夫だって思ってたんだろう。

「駅伝とかマラソンが悪いんだよな。道路で走る競技だから皆が勘違いするんだよ」

 僕もその一人だ。道路で走り込むのが当たり前だと思っていた。新藤もきっとそうだ。道路を走っている人は多いし、僕も今まで道路で走ってきたし、何より道路で走るのが好きだった。だから僕は駅伝部に入部した。

 駅伝は道路で走る競技。

 でも駅伝部が道路で走るのは駄目だと言う。

 なんか矛盾しているような気がした。

「でもさ、道路を抜いたら走れる場所って全然ないんだよな。俺なんか近くの小学校のグラウンドしかないし」

 亮先輩が言った。よくよく考えると、硬い地面を禁止されたら学校のグラウンド以外で走れる場所はないような気がした。道路は殆どがアスファルトだ。畑の道もアスファルトで舗装されているぐらいだ。近くに学校がなくて、道路で走るのを禁止されたらどこで練習をしたらいいんだろう。こんな小さな島でもほとんどの道路がアスファルトになっているくらいだ。そうなるとコンクリートジャングルの都会だと硬い地面だらけだ。

 大志先輩に、恵まれている、と言われた事を改めて痛感した。

 キャプテンが言った。

「盛男さんも新藤を心配してるんだよな。あいつのお父さん故障が多かったみたいだし」

 新藤の父親は実業団の選手だったみたいだ。どんな練習をしていたのか分からないけど、故障が多かった選手なら無理な練習をしていたかもしれない。そんな父親を見て育ったんだから、新藤は無理な練習法を擦り込まれているかもしれない。

 それに新藤は都会で生まれ育っている。あの様子からして、道路で走る事に何の抵抗も感じてない。

「ちょっと盛男さんに相談してみるか」

 キャプテンの声は暗かった。しんみりした雰囲気のまま解散になった。皆が自転車で散っていく中、僕はすぐそこのあぜ道を歩いた。

 ガレージのシバが見えた。ちょこんとお座りをしてここを向いていた。そのシバを引っ張り出して、また学習の森に戻った。

 皆が帰っている間にもこうやって走れる。犬の散歩もついでにできる。恵まれている環境をとことん利用してやろう。

 森に入るとシバを放した。シバは嬉しそうに茂みの中に入っていった。そんなシバには構わずに僕は走った。

 異変を感じた。地面が沼になってるのかと思った。それほど脚が重かった。

 限界だとは分かっていた。でも走らないわけにはいかない。今までの遅れを取り戻さないといけない。せめて普通の高校生レベルまでには走れるようにしないと。

 最初はまだ勢いがあった。でも半周ぐらいで脚の感覚は鈍くなって、力を入れようとすると、太腿、脹脛、さらには腹筋までもが攣りそうになる。屈伸しただけでも色んな所が攣って呼吸が止まりそうになった。

 前方の茂みからシバが飛び出してきた。

 僕を見ると動きを止めた。

 じーっと見ている。

 僕の異変を感じ取ったみたいだ。でも近寄ってこない。

 慎重に動いた。少しでも力むと張った筋肉が、ギュッ、と縮んでしまう。大きく息を吐きながら何とか立ち上がる。

 動き出すとシバも動き始めた。シバはどんどん先を行った。途中、草の茂みに入って道草を食っている。そして僕が追いついてくると、またダーッと先を行く。

 案内しているように見えるけど、そうじゃない。

 ただ僕から逃げているだけだ。こいつは元気だとこんな感じで逃げ続ける。

 今の僕ではこいつを疲れさせられなかった。もう全身が悲鳴を上げていて、歩くのが精一杯だった。

 森の中はどんどん暗くなっている。前を行くシバは暗くなった森に同化していた。どこにいるのか分からない。思いっきり指笛を吹いて、帰るよ、と言ってから来た道を戻った。木の間から見える外の光を頼りに森を進んだ。

 腹が大きく鳴った。ほんとに家が近くて良かった。

 ガサガサ、と後ろで茂みが騒いでいた。

 振り返ったけど暗くて何がいるのか分からない。でも、はっはっはっはっ、と聞こえるからシバだと分かった。

 先に進んで森を出た。振り返ると、ちょうどシバが勢いよく森から出てきた。まだまだ元気そうだった。

 帰ろう、と言ってシバに近づいた。その瞬間、バッとシバが横に飛んだ。着地すると、クラウチングスタートみたいに構えて僕に対峙した。突き出たお尻の上で尻尾だけがふりふり動いている。

「ヴぁん!」

 号砲のような声で吠えたシバが勢いよく森に突っ込んでいった。

 黒い森は犬の興奮する声を出しながらしばらく震え続けた。

 もう付き合ってられないから僕は森を後にした。

 あぜ道を進んでいると、後ろから、バタバタバタ、と勢いのある足音が迫ってきた。振り返った瞬間、黒い塊が、びゅんっ、と風を残して足下を通過した。そのままの勢いでシバはあぜ道を突っ切っていく。まだまだ元気だった。

 あぜ道を抜けると、家の前には舌を垂らしてウロウロするシバがいる。近寄ろうとするとシバは逃げた。

 元気だといつもこうだ。家の周りをうろついて離れない。このまま放っておいてもどこにも行かないけど、構ってくれないと隣の家のサンダルを盗んだりするからタチが悪い。何とかしたかったけど今は無理だ。

 とりあえず家に入った。僕を見た母が「やつれてない?」と心配した顔で言ってきたので、玄関の鏡を見ると、そこにはげっそりしてやつれている人がいた。髪もボサボサで、これだと何かに命からがら逃げてきた人みたいだった。

 すぐに風呂に入ってご飯を食べた。今日は豚の角煮と、キャベツ炒めだった。

 とにかく腹が減っていた。

 ご飯がすすんだ。炊き立てのご飯は瑞々しくて甘みがあって美味しかった。角煮一つでお茶碗のご飯はなくなった。

 ご飯だけでもいけた。身体に染み渡るのが分かった。力が湧いてくる。何度もお替りをした。いつもの倍はおかわりした。水もたくさん飲んだ。冷蔵庫にあった刺身も食べた。どんどん胃に入っていった。

「・・・凄い食欲」

 満腹になった頃には、母と千紗は唖然として僕を見ていた。

 こんなに食べたのは初めてだった。今日の練習はそれだけ身体を酷使していたという事だ。

 筋肉の張りが凄まじい。明日の筋肉痛が想像できた。お腹が苦しかったけど、筋肉痛を少しでも和らげたかったのでストレッチを始めた。

 揺れるカーテンの向こうが騒がしかった。

 ばうわう、と犬の声がする。

 カーテンを開けると、シバがこっちを向いて座っていた。

 その前には幾つものサンダルがあった。


            つづき

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https://note.com/takigawasei/n/nf8f2f40e1365


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