23.新入部員
今日はスピード練習。練習は調整期間に入っていた。激しい練習はしないけど、身体がなまらないように、とたまに負荷が強めのスピード練習がある。
笛が鳴った。
皆が一斉に走り出した。
ダッシュで広場を縦断する。走り終えると流しながらスタート地点に戻った。
「これでラストです」
パラソルの下でゴザに座り込む椿が言った。
「はっはっはっはっはっ」
その足下には激しい息切れをして寝転がるシバがいる。
だらしなく腹を出して仰向けになっていた。それで椿に撫でられる姿は、もうスケベなおっさんにしか見えない。
椿がシバのお腹を撫でながら笛を鳴らした。
全員が一斉に走り出す。
新藤がどんどん前に伸びていく。
短距離になると新藤の独壇場だった。唯一の対抗馬のキャプテンは短距離になると全然ダメだった。一本だけなら僕の方が速かった。
「疲れたああ」
キャプテンがパラソルの下のクーラーボックスを開けた。
その瞬間、シバが身体を反転させて立ち上がる。目をギラギラさせて、クーラーボックスの中をガサゴソ探るキャプテンの隣に寄ってくる。
「お前は駄目だ。水で我慢しろ」
クーラーボックスの中を覗いてくるシバの顔を、キャプテンが手で塞ぐ。それでもシバは諦めずに顔を捻じ込ませてくる。負けじと、キャプテンも手に力を込める。
すると、ぐるるるる、と塞いだ手の中から唸り声がする。
その瞬間、キャプテンは飛び跳ねて逃げていった。
「シバ!ダメでしょ!」
椿が大きな声を上げた。すると、シバはビクッとしてすぐに椿を向いて、その場で行儀よく座った。さらに椿が呼ぶと、シバはスイッチが入ったみたいに立ち上がって、椿の前に寄って行儀よく座る。
ニッコリと椿は笑顔になった。ジャーキーを差し出してシバの頭を優しく撫でた。
「何で飼い主より言う事を聞くようになってるんだよ」
賢人が僕を見て言った。本当にそうだった。何故かシバは椿の言う事をよく聞く。これだと僕の飼い主としての立場がない。
サイドカーに乗ったシバの存在を知られた翌日、練習にシバを連れて来る事になった。
絶対に盛男さんが許可しないと思ったけど、ちゃんと練習をするなら、と、まさかの展開になってしまった。
盛男さんは明らかに渋っていた。
でも、頼み込んでいたのは椿だった。椿は熱烈にしつこく盛男さんに頼み込んだ。その際に、椿は部の不満を出しにして、シバがどれだけ必要か切に熱弁した。
まあ、その熱弁を要約すると、シバは練習中に手持無沙汰な椿の暇つぶしに持ってこいの存在だった。
完全に椿のわがままだったけど、貢献度の大きい椿のお願いを盛男さんは断れなかった。
椿は駅伝部になくてはならない存在だった。
雑用に、記録に、連絡と、椿は皆が練習に専念できるように抜群な気配りで動いてくれる。練習中に皆を応援してくれるし、何より椿がいるだけで部の雰囲気が華やぐ。そんな椿の機嫌を損ねる事なんて誰もしたくない。
最初は不安しかなかった。リードを離したら最期だと思った。
走っている皆の傍をうろついて、
脱いだシューズを咥えて、
芝生の上でトイレして、
行方不明になって練習を中断しての犬探し。
考えるときりがなかった。
でも、ふたを開けてみたら意外にもシバは行儀が良かった。
試しに椿が放してみると、シバはインターバルダッシュに割り込んできた。しかも、ダントツで走る新藤と張り合うように走った。意外にもシバは新藤のいい練習相手になった。
新藤は楽しそうに毎回シバと競り合った。シバは新藤の傍を離れなかった。ジョグ中も新藤を見上げながら傍を離れずにスタート地点に戻っていく。
それで疲れると、トコトコと勝手に歩いてパラソルの下で涼む椿の傍に寝転がる。その後はまるで王様みたいに椿に撫でられながら涼んでいる。
トレイル練習でも全く同じだ。
新藤の傍を走って、疲れたら椿の傍に行く。
飼い主の僕は必要としてなかった。
元気な時は新藤、疲れたら椿、
で、僕には見向きもしない。
シバを練習に連れてきて一週間が経つけど、この犬は完全に駅伝部に溶け込んでいた。皆に可愛がられているけど、中には死角から突いて怒らせる亮先輩がいたり、さっきみたいな幼稚な小競り合いをするキャプテンもいる。そんな事もあるけど、シバは駅伝部を気に入っているみたいだった。
僕が練習前に学校から帰ってくると、シバは繋いだヒモを引き千切りそうな勢いで僕を待っている。それでヒモを解くと、練習場まで物凄い力で僕を引っ張っていく。振り返らない。ずっと前を見ている。それが悲しかった。
まあ僕としてもシバを練習に連れていけるのは都合が良かった。シバを遊ばせる事ができるので、今まで練習後にしていた散歩を省ける。これで練習後の時間が大幅に増えたし、練習後から帰ったシバは疲れ切って大人しくなるしで、いい事尽くしだった。
と、ここでシバの事は置いといて、
県予選はいよいよ次に来る日曜にまで迫っていた。近くなるにつれて周囲の期待も分かりやすくなっていた。
学校の校舎には駅伝部を応援する垂れ幕が掛かった。
新聞記者が練習場に押しかけてきて僕らに取材をした。しかも一人一人の顔写真と抱負が新聞に載った。皆の集合写真には、椿の傍で舌を出すシバの姿もある。
新聞に載ってからはよく声を掛けられるようになった。
親戚が家に訪れてきて激励してきたりもした。近所の人達も僕を見ると声を掛けてきてくれる。練習を見物しに来る人もいるし、差し入れを持ってきて、さらにシバのおやつまで持ってきてくれる人もいる。色んな人達に応援されるのは凄く誇らしかったし、自分達がやっている事が喜ばれている事なんだなと胸が熱くなった。
でもその反面、恐くもあった。
新聞では僕らが優勝するとの下馬評があった。
僕らは優勝候補の筆頭に挙げられていた。
それは、県内で圧倒的な力を持つ新藤とキャプテンの二人がいるからだ。もの凄く注目されている事がひしひしと感じ取れた。これで一位になれなかったらと考えると、なかなか寝付けない夜もあった。
そんな日が続いて、いよいよ金曜日になった。
この日、僕らは体育館の舞台に立った。全校生徒の前で駅伝部の激励会が催された。一人一人がマイクで抱負を言った。何を言ったか緊張し過ぎてよく覚えてない。
キャプテンがマイクを握ると途端に三年生の列が騒がしくなった。
「りょうごう、新ネタ!」
そんな声が絶えなかった。煽りを受けるキャプテンに、またスイッチが入ってしまった。披露したのは対面式にやったコンパスのフルスピードバージョンだった。
甲高い悲鳴、野太い笑い声に別れた。
その中でも一番に笑っていたのは、キャプテンのすぐ傍にいた新藤だった。
教室に戻るとクラスメイトが集まってきて激励を受けた。
本島で大会があるのが残念でならなかった。これで地元開催となったら間違いなく百人力だったのに。来年じゃなくて今年だったら良かったのにな、と思った。
昨日、盛男さんから聞いた。
来年の県予選大会の会場がこの島に決まったと。
キャプテンはかなり悔しかったみたいで、留年しようかな、と小さく嘆いた声を僕は聞き逃さなかった。
「いいよなあ、旅行できて」
そんな嫉妬も受けながら皆とワイワイ喋っていると──────
ドン!
後ろで誰かが机を強く叩いた。
「うっせえよ!ボケ!」
つづき
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