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35.お客さん


 洗濯機に汚れ物を流し込む。洗濯機がゴウンゴウン言って動いたのを確認してから、台所に移動して流しに溜まった食器を洗う。終わったら次は米を研ぐ。研いだ米を炊飯器に入れていつもの時間にセットする。次に掃除機の電源を入れてリビングを掃除する。掃除が終わった頃に脱衣所に行くと、予定通り洗濯機は役目を果たして静かになっている。洗濯物を取り込んで、そのまま乾燥機に放り込んでスイッチを入れる。

 時計を見ると、目標の時間より早かった。最初と比べるとかなり板についたなと思う。

 とうとう母に言われた。「何もしない人にはご飯は作りません」て。それで母が帰るまで、さっきやった家事をする羽目になってしまった。めんどくさい事になってしまった。

 とりあえず課せられた仕事は終わったので、テレビを点けた。昨日録画したドラマを観る事にした。

 外が騒がしかった。シバだった。高い声で、きゅんきゅん、と猫なで声を出している。

 千紗が帰ってきたのかなと思ったけどちょっと様子が違う。

 シバの声がどんどん興奮の色を帯びて、きゃんきゃん、と鳴き始めた。そんな声はあまり聞いた事がなかった。一向に鳴き止まないので庭を覗くと、ヒモに食い止められるシバが立ち上がって前足をブンブン振っていた。

 見つめる先に人影が見えた。その人を見て心臓が跳ねた。

 新藤だった。微笑んで手を振っていた。

「入ってもいい?」

 突然の事であたふたしていると、「中じゃなくて、ここでいいからさ」と新藤は言って庭に入ってきた。

 シバはパニック状態になった。足踏みして身体を上下左右に激しく揺らしている。

「元気だったか?」

 新藤が屈むと、シバは新藤の下に潜り込んで、がふっごふっ、と嬉しそうに声を上げた。

「痛い痛い!ちょっと落ち着けって」

 足下で激しく動くもんだから何度も新藤の脚に頭突きをしていた。

 新藤は練習着だった。「これから練習なの?」と訊くと「もう終わった。今は調整中だから終わるの早いんだ」と新藤はシバの身体を撫でながら言った。そうだった。新藤は今度の日曜に大会がある。

「日曜日、頑張ってね」と言うと、新藤が僕を向いて「あ、知ってたんだ」と意外そうに言った。

「多分、一区を走るよ」

 そう、としか言えなかった。

 沈黙が流れた。

 がふっ、とシバが言った。

「このままでいいの?」

 新藤の声は冷たく聞こえた。

 新藤がこっちを見ているのが分かった。でも僕はただ俯いて黙り込んだ。

「あれは嘘だったの?」

 新藤を見た。あまりにも真っ直ぐな眼差しなので逸らしてしまった。

「速くなるって言ったじゃん。一緒に頑張ろうって約束したの覚えてないの?」

 まさか新藤が覚えていたとは思わなかった。何か言いたかったけど言葉に詰まって、結局「ごめん」としか言えない。そしてまた嫌な沈黙の時間になる。

 ごふっ、とシバが言った。

「楽しみだったんだけどな・・・」

 新藤が立ち上がった。

「どんどん速くなる哲哉がどこまで来るのか・・・」

 新藤の目が見れない。視線には新藤の脚にへばりつくシバがいる。また「ごめん」と言ってしまった。

「ま、強要はしないけどさ」

 いつもの新藤の声に戻った。新藤はシバの頭を撫でながら「またな」と言って踵を返した。

 新藤が離れていく。何か言わないといけない。でも言葉は詰まる。ここで考えてしまう自分がもどかしい。

「独りで抱え込むなよ」

 顔を上げると新藤が門の前でこっちを向いていた。

「辛いかもしれない。でもお前は独りじゃない。お前の事を一生懸命考えてくれる人がいるからな。それを忘れるな」

 ?がたくさん出てきた。

「俺は走るよ。キャプテンも。お前に・・・俺達の気持ちを見せる為に走る。だから日曜は絶対に観ろよ」

 質問したい事がたくさんあった。多すぎて何から言おうか迷っていると「じゃあな」と言って新藤は走っていった。

 あ、と声が出たけど新藤には届かなかった。新藤がいなくなっても、僕とシバは動かないでそこを見つめていた。

 すると、そこに母と千紗が現れた。二人ともビクッとして立ち止まった。

「どうしたの。二人とも悲しそうな顔をして」

 驚いた顔の母の隣で千紗が僕らを指さして笑っていた。

「いいねえ。今の二人の顔と夕日。何かのジャケに使えそう」

 千紗がポケットからスマホを取り出そうとしたので、僕はすぐに家の中に入った。


          つづき

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https://note.com/takigawasei/n/nc617edaa5ca1


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