39.温かい人達
教室に入ると、一番前の席の賢人と目が合った。けど、賢人はすぐに目を逸らして机の中を覗いた。
賢人の席に近づくと、僕は意を決して口を開いた。
「観たよ」
賢人が僕を見る。「そう」とだけ賢人は言った。
「凄かった。あの二人は本当に凄い」
その後に昨日から言おうと思っていた一言が出掛かったけど、ガヤガヤした教室がそれを押し戻した。
「で、なに?」
じろりと賢人が見てきた。冷めた目つきだった。素気ない賢人の態度にたじろいだ僕は「それだけ」と言って席に向かった。
席に座ると身体の中からドッと色んなものが出てきたような感じがした。心臓がドキドキ鳴っている。
謝りたかった。そして言いたかった。今日から練習に行ってもいいかと。その一言が言いたかった。
でも言えなかった。
盛男さんに喜ばれたからと言って、賢人が喜ぶかどうかは分からない。
さっきの賢人のあの態度を目の当たりにするとそんな考えが出て怖気づいてしまう。
結局、この日は言えなかった。何度も挑戦しようとした。でも駄目だった。近寄れなかった。いつものように賢人はすぐに教室を出て行った。僕はその背中を眺めているだけだった。
「仲直りできてないのか?」
振り向くと正樹がいた。頷くと、「そうか」と正樹は言って僕の肩に手を置いた。
「気持ちは分かる。俺もまだ謝れてないんだよ」
お互い苦笑した。「どっちが先に言えるか勝負だな」と正樹は言って教室を出て行った。
視線を感じた。
振り返ると、クラスメイトがさっと視線を逸らした。皆が驚いた顔をしていた。よっぽど正樹と話していた事にびっくりしたみたいだ。その驚きの視線から逃げるように、僕は教室を出た。
家に帰ると、まず溜息が出た。肩に提げたバッグがずるっと落ちて、ゴン、と床に大きな音が鳴った。
「しんき臭いなあ」
ソファーに寝転がった千紗がいた。うるさい、とだけ言い返して二階に上がった。
「あれ?練習行かないの?駅伝部に戻ったんでしょ?」
その声は無視して部屋のドアを閉めた。ひとまずベッドに寝転がる事にした。腰が重い。無意識に溜息が出てきた。
朝、僕はこんな一日を想定していた。
まず、教室で賢人に謝る。そして言う。練習に行っていいかと。それで賢人と仲直りする。学校が終わって賢人と練習場に行って、駅伝部の皆に会う。そこで皆に謝って許してもらって練習に復帰。めでたし、めでたし。
こんな想像をしていた。でも、それが朝の賢人の態度で出鼻を挫かれて今になる。
寝返りを打った。
まだ悩んでいる自分がいる。
行くしかない。それは分かっている。でもなかなか決心がつかない。
明日にしようかな。折角だからこの想定した事を、また明日に実践してもいいかもしれない。明日は賢人の機嫌が良くて、簡単に話せるかもしれない。いや、やっぱり駄目だ。後回しにしたら駄目だ。それに今日行かなかったら盛男さんに示しがつかないし、父と母にもさっきの千紗みたいに何か言われる──────。
シバが吠えた。何度も吠えていた。
「今さっき食べたでしょ!デブになるよ!」
千紗の声だった。あうあうあう、と続けてシバの高い声がする。反論しているように聞こえた。ここ最近は大人しかったのに、今日はいつになくうるさい。
時計を見た。もう皆は集合してアップを開始しているはずだ。このまま悩んでも時間はどんどん過ぎていく。こんなに悩むぐらいなら思い切って動けばいい。そう思って動こうとすると今朝の賢人を思い出して、また躊躇ってしまう。もう、いい加減にしろよ。
「あ、シバ!ダメ!」
千紗の声がした。バタバタと外が騒がしくなった。はっはっはっはっはっ、とシバの息切れの声が真下で通り過ぎると、次にバタバタと騒がしい足音が過ぎていく。
静かになった。
しばらくすると、また騒がしい音が戻ってきた。
バタバタと真下で足音がすると、玄関のドアが開いて、ドタドタと足音が階段を駆け上がってくる。ドアの向こうからでも苦しそうな息切れが聞こえた。
「ねえ、お兄ちゃん。シバが逃げてどっかへ行っちゃった・・・」
千紗の声を黙って聞いた。
「どうしよう・・・遠くに行っちゃったよ・・・」
千紗の声は泣きそうだった。困った時だけこいつは妹面してくる。
大きく息を吐いてからドアを開けた。泣きそうな顔を上げた千紗に「行ってくるから心配するな」と言うと、練習着に着替えて外に出た。
シバの行き先は分かっている。
この時間にいつも行っていた所に行っているはずだ。
今日は多目的広場でフリーランニングのはず。僕は皆の所へと向かった。
歩きながら作戦を練る。まずどこから広場に入ろうか考えて、球場側から入る事に決めた。ブルペンもあるから陰に隠れて様子を窺える。
次に皆に何て言おうか考えた。
まず謝る。
それは絶対にしないといけない。
その次だ。
簡潔に言った方がいいのか、いや、それより逃げた理由を言うべきか。それとも謝って単刀直入にお願いをするか。でも、まだ僕が部に戻れるとは決まっていない。盛男さんが許しても、他の皆は許してくれるか・・・新藤とか省吾とか椿は大丈夫そうだけど、先輩達がどうか・・・先輩達とは逃げてから一度も顔を合わせていない。そんな失礼な後輩を快く迎え入れてくれるだろうか。心優しい大志先輩は許してくれそうだけど、ちょっかいばかり出す亮先輩は分からない。今朝の様子だと賢人は許してくれなさそうだし、キャプテンは僕を恨んでいる可能性だってある・・・・・。
そんな事を考えていると、いよいよ球場の前に辿り着いた。
この球場の向こう側に皆がいる。
足を踏み出した。敷地には入らずにそのまま迂回しながら道路を歩いた。
まだ勇気が出てこなかった。部の皆の顔を思い浮かべると、どうしても嫌な事しか浮かんでこない。
球場の敷地の周りを歩いていく。優柔不断もいいところだ。足はずっとフェンスに沿って歩いている。植え込みの草木の隙間から中が見える。僕はその隙間を覗きながら歩いた。球場を過ぎると、いよいよ広場が見えた。
僕はここで立ち止まった。息を潜めて草木の隙間を覗き込んだ。かなり遠いからはっきりとは見えないけど、五人がジョグをしている。一人少ない。でも遠いから誰がいないのか分からない。
さらに近づいてみた。見えやすい位置まで来て、また草木の隙間を覗き込んだ。五人はバラバラにジョグをしている。間隔は遠くて離れている。角度を変えながら見ていく。
ここで、椿もいない事に気づいた。パラソルはあるのにそこには誰もいない。椿は休んでいるのだろうか。そう思っていると、どこかから音がした。
「はっはっはっはっ」
犬の声が聞こえた。
「もう、どこに行くの・・・」
女の人の声もする。その声に聞き覚えがあった。
椿だ。その声はすぐ向こうから聞こえた。
驚いてフェンスから離れた。離れると、すぐ近くに開いたままの門が見えた。
気づかなかった。僕は門のすぐ傍にいた。犬の声はすぐ向こうから聞こえる。犬の足音と椿の足音がその門へと向かってくる──────。
「あ!そこはダメ!外だよ!」
すると、向こうの門から一匹の犬が出てきた──────。
やっぱりシバだった。
立ち止まったシバは丸めた尻尾をぶんぶんと振った。僕を見る目はキラキラと輝いている。口角が上がって少しだけ開いた口からピンクの舌が見える。犬らしい顔だ。初めてこの犬からこんな純粋な犬な顔を見た気がした。
「え、哲哉くん?」
声の方を向くと驚いた顔の椿が立っていた。お互い固まったままだった。シバの息切れが10回ぐらい聞こえたところで、椿がニコッと微笑んだ。
「皆の所に行こう。こっちだよ」
椿は手招きをして歩き始めた。シバも椿の後をついていく。
どうしようか悩んだ。行きたい気持ちはあるけどやっぱり躊躇った。
「どうしたの?行かないの?」
椿が心配そうな顔で僕を見ていた。シバも立ち止まって振り返ってくる。ひくひく、と黒い鼻を動かして僕を見てきた。
どう言ったらいいか分からなかった。僕はただ立ち尽くして黙っていた。
「どうしたの?誰と喋ってるの?」
死角から別の声がした。
その声は新藤の声だった。
あ、と思った時には新藤が姿を出していた。新藤は僕を見るとピクッと身体の動きを止めた。またお互いが固まって、シバの息切れだけが響いた。
「・・・観てくれた?」
新藤を見た。
無表情に見えた。
けど、ちょっと違う。
なんか優しさを仄かに残したような、そんな感じの顔を新藤は僕に向けていた。その新藤に向かって僕は言った。
「うん。凄かった。二人とも本当に凄かった」
新藤が微笑んで頷いた。すると急に動き出して僕の前に立つと、手首を掴んできた。
「じゃあ行こう」
新藤に引っ張られて僕は広場へと連れられた。先を走っていた椿が広場の皆に向かって手を振って「哲哉君が来たよお」と声を上げた。パラソルの下に集まっていた皆が僕らの方へ顔を向けた。皆が驚いた顔をしている。どんな顔をしたらいいのか分からなかったので、僕は俯きながら新藤に引っ張られた。皆の前に着くと新藤は腕を離した。
まず皆に頭を下げた。そして「すみませんでした」と謝った。
頭を上げられなかった。今の自分の顔を見せられなかった。
「自分のせいで失格になって、本当にすみませんでした。たった3キロの距離を走り切れなくてすみませんでした。自分が普通に走れていたら優勝したのに、県代表になれたのに、キャプテンが都大路で走れる最後のチャンスだったのに、自分はそれを潰して・・・・」
途中から苦しくなって声が出なかった。また涙が出ている。涙が止まらなくて感情が溢れすぎて何が何だか分からなくなって、僕はその場に膝を着いた。
顔が上げられない。涙でぐしゃぐしゃになった無様な顔を皆に曝したくない。
「謝るな」
キャプテンの声だった。
「哲哉、謝るな。誰もお前が悪いと思ってないから・・・」
顔を上げた。キャプテンが目の前にいた。でも涙でキャプテンの顔が見えない。
「あんなに死に物狂いで走ってきた人を責める馬鹿はいないって・・・」
キャプテンは僕の肩に手を置いた。そして「この、ばかやろう」と言った。
「お前が死ぬんじゃないかと思った。あんな状態になっても、お前が立ち上がろうとするから、もう怖くて怖くて・・・あんなにまで追い込まれて辛い思いをして走ってきたのに、それなのに報われなかったお前が本当に可哀想で・・・」
涙声だった。キャプテンが大きく鼻を啜って息を大きく吐いた。
「誰もお前を責めてない。お前がここまでどれだけ頑張って、どれだけ大変な思いをしてあの日に備えてきたか・・・それを知っている俺らは、誰もお前を責めない。お前を責める奴は、お前を責める資格のない奴だ。だから棄権した事を謝らなくていい。お前はあの大会で誰よりも死ぬ気で走った選手なんだから・・・」
涙が止まらなかった。キャプテンの言葉は胸にじんじんと響いてきた。そんな事を言ってくれると思わなかった。キャプテンがまた大きく鼻を啜って大きく息を吐いた。
「それなのに、お前は自分だけで抱え込んで、挙句の果てに勝手に逃げ出して、しかも顔も見せずに文字だけ送りつけて・・・正直、あれをされた時は皆が怒ったんだからな」
キャプテンの声がだんだんと低くなっていく。
「お前がそんな別れ方をして、それで納得するんならそれでいいと思った。だから俺らは呼び戻さなかった。お前があれで納得したんならそれまで。でもそんな事をしたまま終わりにするんなら俺らもずっとこのままだった。お前が顔を見せに来ないんなら俺らも顔を見せない。賢人にも強く言ったよ。哲哉が謝ってくるまで許すなって。ちょっと酷いかなとも思ったけど、そうでもしないとお前がこのまま逃げ続けそうだったからそうさせたんだ。賢人にも謝れよ。賢人はお前を信じてずっと待ってたんだからな」
僕は謝った。泣きながら皆に謝った。そして賢人にも謝った。賢人は苦笑いしていた。
「遅いよ。結構焦ってたんだからな」
いつもの賢人の表情が見れてもっと涙が出てきた。
本当に最低だった。
誰も僕を責めていなかった。それなのに僕は勘違いして、暴走して、逃げてしまった。そんな事をされたら呆れられて当然だ。それなのに、皆は待ってくれた。賢人もずっと待ってくれていた。
背中をポンポンと叩きながらキャプテンは話し続けた。
「正直、お前がこのまま戻って来ないかと思った。だから俺と新藤は死に物狂いで走ったんだぞ。新藤なんて痛みを押してまで走ったんだからな。俺と新藤がテレビで頑張った姿を見せたら、お前がまた走りたくなるんじゃないかと思ってよ」
新藤を見た。目が合うと新藤は僕に向かってピースをした。右膝にはサポーターが巻かれていた。
新藤は内緒で僕の所に来てわざわざ教えてくれた。そして、こんな僕の為に痛みを堪えて必死に走ってくれた。新藤の気持ちを思うとまた涙が溢れてきた。
背中を叩く力が、ポンポン、から、バンバン、と強くなってきた。
「でも、こうやってお前は戻ってきた。ちゃんと皆に謝った。皆も許した。もうこれで終わり。皆、お前が戻って来るのをずっと待っていたんだからな。だからな、哲哉──────」
キャプテンが僕の肩を力強く掴んだ。
「絶対に駅伝を辞めるなよ。頼むからこのメンバー全員で繋ぐ駅伝を見せてくれよ。絶対に傍で応援するから。お前らが笑顔でタスキを繋ぐのを傍で見ているからさ」
キャプテンが照れ臭そうに肩をバンバンと叩いてくる。
涙が止まらなかった。でもこの涙は最初の涙とは違う。
嬉し涙だ。
嬉しかった。キャプテンの温かい言葉に、皆の温かい気持ちに、嬉しくて涙が溢れた。
「もう泣くなよ。涙を拭いて顔を上げろって」
キャプテンは僕の頭を荒々しく撫でた。僕は涙を手で拭った──────。
その時だった。
ザザザザザ。
もの凄い勢いでそれは芝生を駆け抜けてきた。
「があああ!」
凶暴な声だった。
シバだった。牙を剥き出してキャプテンに飛びかかっていた。驚いたキャプテンは、飛びついてきたシバをギリギリかわす。
着地したシバは尚もキャプテンに襲いかかってきた。
キャプテンは逃げた。凶暴化したシバはキャプテンを追い駆けた。
「何であいつ怒ってんの?」
亮先輩が訊いた。
「多分、哲哉を虐めてると思ったんだよ」
大志先輩が答えた。
「なるほど」
新藤と椿と省吾が声を揃えて言った。
皆の声は呑気だった。皆が呑気に笑っている。
「なんだかんだ飼い主をちゃんと守ってくれるんだな」
賢人がそう言った時、転んだキャプテンはシバに馬乗りにされていた。
つづき
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