12.自主練
青空の太陽はいつもより控えめに光って見えた。心地よく吹いてくる風が周りの空気を緩やかに流していく。
通り過ぎようとした家からテレビの音が聞こえた。生垣の隙間から覗いて見ると、開放されたサッシ戸から足を投げ出して口を開けて寝ているおじいちゃんが見えた。よく見ると奥の方でおばあちゃんが眠そうな顔をして頬杖をつきながらテレビを見ていた。
時間がゆっくり流れているように感じた。学ランを自転車のカゴに脱ぎ捨ててワイシャツ姿になった。
初めての練習のない日だった。
毎週土曜が部活は休みだ。
身体を休めて、翌日の激しい練習に備える。
それを思うと明日が恐くなってきた。
帰ると練習着に着替えた。尻尾を振って待ち構えていたシバを連れて外に出る。畑のあぜ道を通って学習の森に入った。
涼しくて気持ちよかった。
しばらくこの気分に浸りたかったけど、すぐにリードの力に邪魔された。見ると、シバが茂みに顔を寄せてクンクン匂いを嗅いでいる。そして尖った細い草を食べ始めた。リードを引っ張っても踏ん張って抵抗してきた。時間がかかりそうだったのでリードを離す事にした。軽く足首を回してから走り始めた。
風が森を小さく揺らしていた。小鳥のさえずりが気持ちを落ち着かせる。見上げると、そよ風で揺れる木の間から木漏れ日が差し込んできていた。小鳥のさえずりと揺れる森の音に包まれて僕の足音がリズム良く響いた。気持ちいい午後のひと時って感じだ。
リラックスしながら走っていると、後ろから、バタバタバタ、と慌ただしい音が迫ってきた。振り返ると、舌を出したシバが僕を追い抜いていった。後ろも見ずにどんどん先に行って、お尻を向けた犬の姿は曲がりくねった道の先に消えていった。しばらく走っていると慌ただしい音が聞こえてきたので、そこを向くと、コースの外で地面を掘るシバがいる。僕に気づいたシバが思い出したようにハッと顔を上げると、すぐにコースに戻ってきて一気に距離を詰めてきた。
足下にビュンッと風が吹く。垂れ流しのリードが跳ねて脚に掠っていった。
邪魔臭い。けど無視を決めて走る。身体が暖まってきたので少しペースを上げた。今日はジョギングと決めている。明日に差し支えないように楽しむ程度で。
心地良く時間が過ぎた。もう3周を走っていた。
後ろを見ると、シバは舌を出して辛そうな息を吐きながらチョコチョコ歩いている。
いつもの事だ。最初はアホみたいに全力ではしゃいで、疲れたら大人しくついてくる。この姿が堪らなく可愛い。
けど、あの姿はフェイクだと分かっている。
あの坂道での走りを見せられてから、もうこの犬は信用できなかった。
車に乗った千紗を見た時のあの変わりよう。
あの姿を見たらこの犬の疲れきった姿には、ただただ疑心が湧くばかりだった。
途中、僕は森を抜ける道に曲がった。後ろを見て、しょぼんと俯くシバが曲がってきたのを確認してから走り始めた。森を抜けて広い道路に出ると、さらにスピードを上げた。
急に道路で走りたくなった。少しだけならまあ大丈夫でしょ。
しばらく走ってから後ろを振り返った。
小さくなった黒い犬が丁度カーブを抜けてきていた。いつものように舌をだらんと垂らして、ててて、と早歩きのように四本脚を動かしている。俯いている。その姿に生気はない。
置いてくよ、と声を上げた。それでも俯いた視線は上がらないし、足取りも全く変わらない。
もう知るか。
前を向いた。すると、前からここに向かって走ってくる人がいた。軽やかに走ってくるその人が誰なのかすぐに分かった。
新藤だった。
新藤の家はここまでかなり遠いはずだ。どうしてここに?
そう考えている内に、新藤はあっという間に大きくなった。
新藤は走りに集中していた。目は遠くを見ていた。けど目の前に迫ると、新藤の目がフッと僕を向いた。
「あれ?」
すれ違った新藤から声が出た。新藤が急停止して振り返ってきた。
「やあ」と言って遠慮がちに手を上げた。
すると、新藤が笑顔になって「自主練?」と訊いてきた。相変わらず爽やかだ。濡れた髪が似合い過ぎる。水も滴る良い男。
「ちょっとね。新藤も走ってたの?」
「うん。散策してたらここに着いてた」
新藤は額の汗を拭いながら僕の方に近寄ってきた。
まさかの展開に緊張した。新藤と二人きりなのは初めてだった。
「哲哉はよくここを走るの?」
「うん。家が近いからさ」
「あ、そうだった。練習から帰るのが早くていいよね」
そんな会話をしていると、へっへっへっ、とだらしない顔した柴犬が近づいてきていた。
僕の視線で気づいたのか、新藤が振り返った。
「お、柴犬」
新藤の目が輝いた。新藤は屈み込むと「おいで」と言って両手を開いた。
すると、新藤と目が合ったシバが急に立ち止まった。落ち窪んだ目がパッと開いて、包まった尻尾が左右に激しく動いていた。
動き始めたシバは躊躇しないで新藤の懐に滑り込んだ。新藤は笑いながら嬉しそうにシバの背中を撫でた。顔を上げたシバの表情は僕に見せた事のない表情をしていた。トロンとした目つきで頭を撫でられている。
あの表情は妹の千紗にだけ見せる顔だ。
「もしかして哲哉の犬なの?」
振り返った新藤の顔は爛々としていた。頷くと「いいなあ。可愛いなあ」と言ってシバに顔を戻して頭を撫で続ける。しばらく頭を撫でていると、新藤は何やら思案顔になってシバの瞳を覗き込む。
「お前・・・どっかで見たことあるな」
言おうかどうか迷ったけどやめた。サイドカーにシバを乗せて伴走する父の存在は知られたくなかった。
「いつも犬と走ってるの?」
立ち上がった新藤が僕を向いた。サイドカーの柴犬は思い出せなかったみたいだ。
「うん。傍で走ってくれないけどね」
そう言うと新藤は笑顔のまま僕に言ってきた。
「俺も一緒に走っていい?」
意外な提案にちょっと驚いたけど、僕は二つ返事でOKした。
そして二人と一匹は走り出した。
「そういえば名前は何て言うの?」
走り出して初めに口を開いたのは新藤だった。
新藤は足下を指さしている。
そこには舌を出して走るシバがいる。前を見つめるシバはしっかりと新藤の傍をキープしていた。飼い主側ではなく、新藤側にいる事が腹立つ。
「シバ。柴犬だからシバ」と言うと新藤はクスッと笑って足下を見た。
そこには忠犬がいる。ひと時も他人の傍を離れない立派な犬だった。
「よろしくな。シバ」
新藤が下に伸ばした手をシバの背中に這わせる。その手にシバは反応して新藤を見上げた。大きく開いた口から、がふがふ、と声が出た。嬉しそうだった。そんな顔、僕に向けた事はない。ムカつく。
シバは忠実に新藤の傍を走り続けた。その姿が面白いのか、新藤は何度も下を向いてはその度に微笑んだ。
「ねえ、ペースを上げてもいい?どこまでついてくるか試してみたい」
新藤は楽しそうだった。僕が頷くと、新藤はニコッと笑って「先に行ってるね」と言って前を向いた。
その瞬間、新藤の身体がぐんっと前に伸びた。細長い脚が軽快に回転して、目前にあった新藤の背中はどんどん前に飛んでいった。
負けじと足下の犬も脚を強く蹴り上げて前に飛び出していく。
あっという間に置いていかれた。スピードを上げようかと思ったけどすぐに悟った。
このスピードは無理だと。
唖然としながら小さくなる犬のお尻を見た。
一生懸命走っている。後ろを全然気にしていない。一心に新藤の背中を目がけて追っかけている。
これだと新藤が飼い主だ。六年も一緒に生きてきた僕を置いて、まだ会って二回目の人についていくなんて・・・・。
悲しかった。悲し過ぎて、前の一人と一匹を追う気になれなかった。
そんな僕を尻目に、前の一人と一匹はカーブを曲がっていって見えなくなって、僕がカーブを曲がり切った頃には、一匹の姿は黒豆になっていて、次のカーブを曲がりきると、一人と一匹の姿はもういなくなっていた。
悲しみと嫉妬に暮れながら僕は走った。
新藤とシバはグラウンドゴルフ場の広場で僕を待っていた。
芝生の上で新藤は開脚のストレッチをしていて、シバはその新藤の前でお腹を出して横になっていた。もう走れない、と言ったように大口を開けて激しい息切れをしている。だらしなく舌を垂らしてお腹を撫でられる姿はスケベなおっさんに見えた。
「お利口な犬だね。最後まですぐ後ろをついてきたよ」
この犬のそんな姿なんて一度も見た事がない。どこかで道草を食って、僕の存在を思い出して後ろから追ってくる。いつもそんな感じだ。何で新藤にはこんな忠犬になる。
「完璧に懐いたね」
僕の声に、シバが反応して僕を向いた。その目が空気を見ているような目に見えた。
帰ったら水をやらない事に決めた。
「いいよなあ、柴犬」
新藤がシバの腹をワシャワシャと荒めに撫でた。大きく口を開けたシバがくすぐったそうにもがいた。
「犬は飼ってないの?」と新藤に訊くと「飼いたいけど、世話が大変だしね」と新藤は僕を見ずに言った。
新藤は東京からこの島に越してきている。噂では複雑な事情みたいだ。訊きたい気持ちがあったけど、ここは抑えた。まだ知り合ったばかりでそんな事を無神経には訊けない。
「ねえ、お願いがあるんだけどさ・・・」
新藤が僕を見てきた。
ドキッとした。新藤からお願いなんて・・・一体、どんなお願いなんだろう。
緊張しながら僕は身構えた。
「練習が終わった後とかさ、こいつに会いに来てもいい?」
新藤が目配せをした先には、気持ちよさそうに腹を撫でられるシバがいる。大きく開いた口から生気のない舌がでろんと垂れている。
「だめかな?」
新藤の声で我に返った。
「ぜんっぜん、いいよ!こいつも喜ぶと思うよ」
僕はそう言って寝転ぶシバの身体を揺すると、がはがは、とシバが声を上げながら僕を苛立たしそうに見てきた。笑っていた新藤が腕時計を見て「そろそろ帰らないと」と言って立ち上がった。それに合わせて、くるっと身体を反転させてシバも立ち上がった。
「今日はありがとう。じゃあ、明日の練習で」と新藤は言うと、屈んで「またな」と言ってシバの頭を撫でてから走り出した。
シバが走り出しそうだったのでリードを掴んだ。ピンッとリードが張ってシバの前脚が跳ねた。「がはっ」と言って着地したシバは僕を恨めしそうに見てから新藤の方を向いた。
行きたそうだった。リードは張ったままだ。
引っ張ってみると、シバは踏ん張った。小さくなっていく新藤をずっと見ている。何回引いても踏ん張って新藤から目を離さない。
やがて新藤の姿が見えなくなると、やっとシバは力を緩めた。僕が走り出すと、シバは僕の後ろを走り出した。
乗り気じゃなかった。何度も止まってはマーキングをする。そして新藤が走っていった方向を振り返る。
名残惜しそうだった。全く僕を見ていなかった。
もうご飯もやらない事に決めた。
つづき
↓
https://note.com/takigawasei/n/n31a66a0c6f45