18.もっと速く
県総体は本島である。
出場できるのは、五月にあった島の高校総体で上位五名に入る事が条件だった。出場できない僕と賢人と省吾はお留守番になった。
先輩三人と新藤は5000mと1500mの両種目で五位以内に入ったけど、県総体は同じ日に5000mの決勝と1500mの予選が行われるので、今回は大事を取って四人とも一種目だけのエントリーになった。
それで新藤とキャプテンは5000m、亮先輩と大志先輩が1500mに出場する事になった。
大会当日、家でゲームしながらメッセージを待ってると、昼前に椿からレースの報告が送られてきた。
午前中の1500m、亮先輩と大志先輩は予選落ちとの残念な結果。
でも、夕方の報告は嬉しい内容だった。
5000mの新藤とキャプテンが、なんとワンツーフィニッシュを決めた。
二人がゴールする瞬間の動画も送られてきた。
新藤とキャプテンの後ろはかなり離れていた。二人は圧倒的だった。
胸が震えた。僕らは二人の勝負をいつも当たり前のように見ていたけど、この二人の勝負は県のトップ争いだった。
現地で観たかった。でも、僕は現地へ行くレベルにも達していない。
悔しかった。僕は舞台にも立てていない。こうやって映像で仲間を見る事しか許されていないのだ。
あまりの興奮と悔しさで、居ても立っても居られなくなって、僕は寝ていたシバを叩き起こして走りに出た。
道路に出ると、シバをすぐに放して走った。
硬い道路で走るのも、欠伸をして伸びをするシバも頭にない。今日はもういい。僕は心の赴くままに思いっきり走った。
もっと速く。
もっと速く。
身体が速さを求めている。
一歩の踏み出し、一歩の蹴り出し、腕の振り出し、動きに合わせた呼吸。
走るというのは単純な動作かもしれない。
でも、一歩の足を運び出す為には、首から足までの一つ一つ形の違う筋肉の連動と、体内で稼働する臓器と器官とで、やっと成立する動き。色んな動かし方があるし、色んな鍛え方がある。
自分の身体にはまだまだ知らない事があり過ぎる。
でも、少しでも自分の身体の事を知っていったら、知ってない人よりは有利になる。
その為には練習あるのみ。
少しでも速くなる為に、少しでも速く動く為に、少しでも遠くに蹴り出せるように、今のこの走っている瞬間を、大切に大事に有り難く思って走らないといけない。
少しでも新藤の背中に追いつく為に。
いつか新藤と並んで走る為に。
息切れが凄まじかった。熱くなりすぎて我を忘れていた。
一旦走りを止めて振り返った。
後ろには誰もいなかった。
暗くなった夜道に小さな黒い身体はいなかった。
待ってみた。
10秒が経った。
あいつはいつも100mぐらい後ろを走っている。そろそろ見えるはず。
時計を見た。1分経っていた。
僕は走った道を戻った。いつものコースを外れてかなり遠くまで来ていた。
大丈夫とは思いながらも不安になってきていた。
逃げて行方不明になっていたのは昔の事。今は何だかんだついてくる。だから余計に心配になった。何かあったかもしれない。
カーブを曲がった。誰もいない。ずっと続く直線の道路に目を凝らす。
いない。急いで走った。曲がり角を曲がる。
まだいない。次の曲がり角まで走る。
ここにもいなかった。坂道の向こうにいる事を願ってまた走る。
次はいる。きっといる。
そう願いながら走り続けた。でもシバは出てこなかった。見えるのは先までぽつぽつと続く街灯の光だけ。立ち止まって大声で柴を呼んだ。
耳を澄ます。
静かだった。
街路樹が風で揺れている。それがクスクスと悪戯に笑っているように聞こえた。
サーッと血の気が引いていく。心臓が違った動きになった。
気がつくと駆け出していた。ハイビームの車とすれ違う度に心臓が歪んだような動きをした。胸が激しく騒ぎ立てる。
心の中で呼び続けた。何度も願った。でも、いつまで経ってもシバには会えなかった。
喉はカラカラに渇いていた。汗はもう出尽くしている。声が乾涸びた喉の中で詰まる。それでもシバの名前を呼びながら探し回った。
もう真っ暗だった。風もますます強くなった。
とにかく出てきてほしかった。このまま別れちゃうんじゃないか、と思うと泣きそうになった。
シバを呼び続けた。でも、シバは姿を見せてくれない。
そして、とうとう見つけられないままスタート地点に辿り着いてしまった。やばい。本当にやばい。
オロオロしていると、外灯に浮かぶ我が家が畑の向こうに見えた。
家族の姿が浮かんだ。助けを呼ぼうと思って急いで家に帰った。腕時計はもう夜の9時を過ぎていた。皆は晩ご飯を食べずに、心配して僕を待っているかもしれない。
急いで家に戻った。門を開けて玄関に向かうと、ふと庭先に目がいった。
ちょっとだけ自分の中で何もない時間が過ぎた。
まさかね。
そう思いながらも足は庭へと向いている。
微かに物音が聞こえてくる。頭を掠めた、まさか、が現実味を増す。
庭に出ると、リビングから漏れてくる明かりの中に、四本脚の黒い身体があった。
地面に置かれた器に顔を埋めている。
顔を上げたシバは口を動かしていた。
くちゃくちゃくちゃ、と音を立てて僕を見ている。
器の中は大好物のシーチキンご飯だった。
呆然とする僕を見ながら、ごくん、とシバの喉が大きく鳴った。ふんっ、と鋭い鼻息を残してまた器に顔を埋めた。
力が抜けた。
なんて薄情な奴だ。てめえは走っていく主人を置いて先に帰るのかよ。しかも先に飯を食いやがって。南極物語のタロとジロは遭難する主人を助けに基地の人を呼んで迎えに来たんだぞ。それをてめえはなに呑気に飯を食い続けてんだよ。帰らない主人を心配して家族の誰かに知らせるとかないのかよ。
賑やかな声が聞こえてくる。すぐそこのサッシ戸からは暖かそうな灯りの中で華やぐ家族団らんの景色が見えた。
僕はその光景を睨みつけていた。
この家族は変に思わなかったのだろうか。この犬だけ先に帰ってきた、このおかしな状況に。普通なら思うはずだ。一緒に行ったはずの哲也はどこ?て。それをなに気にも留めずにこの犬にご飯をあげてるんだよ。しかもよりによって大好物のシーチキンご飯を。それでもう結構遅い時間なのに、何でいつも通り家族団らんをしてるんだよ。何で少しも心配してないんだよ。なんて能天気な家族なんだよ。
あまりにもムカついたのでまだ飯を食い続けるこの薄情犬に嫌がらせしてやろうと思った。
忍び足で一歩踏みしめた時だった。
ピタッと音が止んだ。器に埋めた顔から鋭い牙が光って見えた。
「ぐるるるるる」
一歩下がった。ぎろっと睨めつける目はまだ僕の足を捉えている。
静かに離れた。そしてそのまま玄関に向かった。
信じられなかった。飼い主に唸ってくるなんて。なんて犬だ。
泣きたくなった。もう心も身体もくたくただった。
つづき
↓
https://note.com/takigawasei/n/n38ef34243777