見出し画像

「知識」と「教養」と「読解力」

いきなり硬いタイトルで恐縮ですが、この違いは何?

昔、私が受けていた教育は詰め込み教育と言われ、「知識」を増やす学習でした。
つまり、単に「知っているか?」「知らないか?」のどちらかです。
知らないことはいくら考えても何も出てこないので、知ることでしか、解決はしません。

そして、知識を測るテストは容易なので、学校では教えやすい、つまり均一に教えやすいのです。

「先生楽してたの?」

と思っていました。

けど、全く違っていました。先生ごめんなさい・・・

先生がしてくれていたことは、ゼロからイチにあげること。
しかもここが1番肝だったのです。
これがゼロのままでは、何も始まりません。

しかも、このゼロイチ、本当に本当に手間なんですよね。
子育てしていると、とても実感することです。

ゼロって、相対的に何も無いわけですから、何もないところに何かの基準を作るって、正直果てしない作業です。

それを、1クラス35人とか集めて、全員に平らに教える訳です。

もうなんというか、絶望的になります。私だったら・・・


いっぽう「教養」とは、「思考」です。時代が変化しようが、歴史がかわろうが、影響のない本質的な「幹」のようなものです。

さて子供たちが社会に出て必要そうなのはどちら?

もちろん、「教養」の方だと私は思います。
知識だけを頭に詰め込むのは、使い方を知らない大工道具ばかり集めているのと同じで、一見便利そうだけど使いこなせず、荷物は重くなるばかりです。

では、「教養」をつけるにはどうしたら良いの?
それには深い思考が必要なのですが、深く考えるためには「知識」が絶対的に必要なのです。

思考力や、読解力など、教育の過程で身に付けるべきとされているものは、そもそも最初の段階で、「知識」を蓄え、「識字力」を高めていないと、どちらも手に入れることは不可能です。

まずは大工道具の名前と使い方を知識としてインプットし、その基本的な使い方をマスターし、後々はもっと高度に「実はこんな風にも使える」という、ちょっと捻った便利な使い方までを身に付ける事が、「教養」をつけるという意味なのかなと私は思うのです。

学校で身につけたいのは「知識」つまりゼロイチです。これがないと始まりません。

「そんなのググればすぐ出てくるじゃん」

そう思われるかもしれませんが、思考する段階でその提案は無意味だとわかります。なぜなら、その大工道具の存在を知らなければ、そもそもググれないからです。

4年生か5年生ぐらいで出てくる、初期の連立方程式。

この段階までに、できる限りの「知識」を得て、「使う」準備をしていないと、ここで躓く事になってしまいます。

ひとつ、問題があるとすれば、ここの流れを誰も説明してくれないことだと思います。

保護者会に参加しても、「○学期の生活の様子」、「新学期の持ち物」、「ご家庭へのお願い(集金など)」

こんなものは、プリントにして配れば十分です。
けれど、私が何十回と参加した保護者会は、20年前からこれでした。

もっと本質的なことを伝えて欲しかったな・・・
と、無念でなりません。

しかしながら日本の学校教育は、基本的には秀逸です。
ただ、それだけに頼ってしまうのは危険です。

今、そこに何かを付け足すとしたら、
それは、習い事でも塾でもなく、家庭での会話なのかな・・・としみじみ感じた私です。

因みに、知識の根本である、読解力の話ですが、

「読解力をつけたいのですが、何をしたら良いですか?」

と、そんな質問を目にするのですが、これ実は今だに不明だそうです。
決定的な方法が見つかっていないそうです。

私の大好きな数学者の新井さんという女性がいるのですが、この方はおっしゃることには、

「読解力や語彙力はどうしたら身につくかはわかっていません。幼少期の読書数や親の収入などの環境にも起因していないことはわかっていますが。
 しかし、数字的なエビデンスが取れていないにしても、体感的には、例えば、重大な事件に巻き込まれた被害者家族が、法律を細かく理解していたり、条文を正確に読み解いていたり、論文を読んだり、弁護士と対等に議論をしたりしていますよね。記者会見でしっかりご自身の考えを発言していますよね。でもそれって、子供の頃からそういった教育を受けていた訳ではなく、単に『必要だった』から『理解できる』ようになったんです。つまり、大人になってから、そういった事が身についているんです。ですから、読解力や語彙力は、誰でも、いつからでも身につけられる後天的な能力なのだと思っています。」

私自身、あまり勉強が好きでななく、いつも山で遊んでいました。
しかし、大人になって、本を読むようになり、「知識」を得たら、ある程度「思考」が出来るようになりました。自分の心の中を整理したり、問題に思っていることを、きちんと学校の先生に課題として伝えられるようになりました。

学校の言いなりになっていた長女の子育て時代。

私は、全く知識も思考力もありませんでした。

手間も時間もかかりますが、教養とは、一朝一夕に身につくものではありませんので、「生涯学習」と言う意味で、「知識」も「教養」も追求し続けたいと思う今日この頃です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?