【小説】園子シリーズ『中川園子の憂鬱』(3/5)
院長に手渡されたしっかりした上質の紙を開けると、左側に名前と経歴が、右側は写真になっていた。
園子は写真の男にくぎ付けになった。予想に反してイケメンで、しかもとても親切で優しそうなのだ。
「どう? 良さそうなひとでしょ? 大学の助教授をしていてね。平安時代の文化学が専攻。知的レベルも申し分ないでしょ? 二つ下の四十四歳だし、まあ、見ての通り、感じのいい男だよ」
そんな男は、園子と結婚しなくてもほかにいくらでも相手がいるだろう。なにか問題があるのではないか。
「この方なら、私なんかと結婚しなくても、いくらでもお相手がいるのでは」
園子は、騙されるな、と自分に言い聞かせながら問うた。
院長は
「この男は同世代の女性じゃないと嫌らしいんだ。年下はだめだと言っていた。研究に夢中になるあまり、気が付いたらこの歳だったらしい。そしてね。大きな声じゃ言えないが、稼ぎが悪い。大学の助教授ってそんなもんなんだね。その点、中川さんは高給取りだから」
その話には納得したが、園子はどうしても断らなければならない理由を発見してしまった。
「私っ、私は、この方と結婚すると、『園田園子』になってしまいます!」
「いいじゃない、園田園子。よく覚えてもらえるよ。一発で覚えるよ」
院長は笑いながら
「でもね。いまは必ずしも男性の姓を継ぐ時代じゃないし、園田くんも気にしないと言ってる。園田くんに中川姓を名乗ってもらうのもありなんじゃないかな」
「そんなに簡単にいくわけないじゃないですか!」
園子はついに声を荒げてしまった。
「苗字の問題は、ご家族、親類縁者みんなの問題です! 当人がよければいいというものではありません!」
それに、それにね。声には出さなかったけれど、園子は思った。結婚して姓が変わるっていうのは、私みたいに結婚から縁遠い女からすると、相当な憧れなんだよ……。
「じゃあ、ここまでのところ、どう思うのか、本人に訊いてみようよ。なあ、園田くん」
園子が顔面蒼白になっているのを尻目に、院長の後ろの襖が開いて、感じのいいイケメンが、園田将一郎が座っていた。
「園田くん。待たせて悪かったね。君も一杯やりたまえ」
院長が園田くんのおちょこに酒を注ぐ。
園田くんの分のテーブルセットは、院長の隣の座布団の上に隠してあったのだ、お盆に乗せて。なんで気がつかなかったんだろう。自分を責めてももう遅い。
「改めまして、初めまして、中川さん。園田将一郎といいます」
「は、初めまして。中川園子と申します。さきほどは失礼なことを……」
園子は恐縮するものの、はて、さっきなにか失礼なことを言ったんだったかしらと思っている。
「中川さん、悪かったね。僕はいいお話になると、やたらせっかちでね。園田くんも、隠れていたから中川さんの本音がよくわかったろう」
いやあ……と照れながら、園田将一郎は日本酒を飲んでいる。
それからのことを、園子はほとんど覚えていない。かちんこちんに固まってしまって、質問されることになんとか答え……気づけばお開きの時間になっていた。
院長が先にタクシーで帰り、園子はタクシーを呼ぶほどの距離でもなかったが、園田とふたりでいると緊張するのでタクシーで帰った。
園子がタクシーに乗り込むと、園子がほとんど使わないラインがすぐに着て
「園田です。今日はありがとうございました。では、来週水曜日十時に、マンションの玄関で。車で迎えにいきます」
と書かれていた。
確かに水曜日は園子が休みの日だ。そこまで話が進んでいたかと驚愕する。
マンションに入ると、部屋のなかを周回する。まずい、まずい、まずい。このままだと私はハイエナに食べられてしまう。園子しまうま、園田ハイエナに食べられる。
自分のペースを取り戻さなければ。百歩譲って、園田将一郎と結婚すると前向きに考えてみよう。確認しておくべき事項はなんだ。
園子は部屋着に着替え、椅子に座って、パソコンに確認事項を書き連ねていった。
姓の問題から始まって、お互いの収入とその利用目的別配分、家事分担、起きる時間、食事の時間、好きな趣味はなにか、好きな食べ物はなにか、食べられないものはないか、結婚したらどこに住むのか、園子はおそらく子供を産めない年齢だがそれは了承しているか、子供好きの場合は養子を望むか、飼っているペットはいるか、飼うとしたらなにがいいか、性の営みは週何回何曜日に行うか、変わった性癖はないか、園子はひとりでないと眠れないが、それは了承してくれるか、お互いに浮気した場合はどうするか……など。
書いているうちに朝五時を回ってしまった。休みの日で本当によかった。
園子はシャワーを浴びるのはあとにして、メイクを落とし、簡単なストレッチをしてから眠った。
(明日に続く)