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【短編小説】 翻訳

 物心ついたときにはすでに、外国の児童文学に育ててもらっていたような気がする。

 日本に生まれ、日本に住み、日本の文化しか知らない私にとって、外国の物語はファンタジックなあこがれの世界であった。

 聞いたことないような名前をもつ物語の登場人物たちは、流暢な日本語を語り、日本語で考え、行動した。あまりにもなめらかに入ってくる訳のせいで、もともとは外国語が書かれたものなのだということには、全く意識がいかなかった。

 幼少期はスウェーデンの作家、アスリット・リンドグレーンの作品を愛読していたが、『ロッタちゃん』シリーズのロッタちゃんの真似をして一人称を「あたい」にしていたら、「そんなあばずれみたいな喋り方はやめなさい」と母から叱られた。

 小学生時代に愛読した書籍は、圧倒的に英語文学を訳したものが多かった気がする。もちろん『ハイジ』はスイス文学だし、ムーミンシリーズを書いたトーベヤンソンはスウェーデン語を話すフィンランド人として育った。

 『三銃士』はもちろんフランス文学だ。そのような例外もあるけど、『若草物語』『大きな森の小さな家』シリーズ、『ピーターパンとウェンディ』『秘密の花園』『くまのプーさん』『不思議の国のアリス』など、私を育ててくれた児童文学作品は、イギリスかアメリカのものが多く、おそらくは英語を訳したものだ。

 英語圏には優れた作品が多いのか。いやそれよりは、英語に精通する翻訳者が多いのだというような気がしている。いずれにしても、それらの文学作品は驚くほどになめらかで、すっと入ってくる日本語であった。

 私が翻訳の壁に最初にぶち当たったのは高校生になってからだ。

 バーランド・ラッセルの『怠惰への賛歌』を読んでいて、アレルギーを起こしたのだ。

 『怠惰への賛歌』は文学作品ではないのだが、ラッセルはとにかくひとつの文章が長すぎる。一文で三行ぐらいに渡ってしまう。

 もとは英語で書かれているが、英語ならば述語は主語のすぐあとに来るし、肯定と否定も初めの方で理解できる。ところがこれを日本語に訳すとうまくないのである。苦労して三行を読みくだいた末に、「ということは絶対にない」などとやられると、思わず本をぶん投げたくなるし、実際に何回かは投げた気がする。

 深刻な翻訳アレルギーに陥って、しばらくは日本人が書いたものしか読まなかった。

 だがいずれ、幼い頃に私を異国に誘ってくれた訳者たちのように、存在を気づかせないほどの自然さで子供たちに新しい世界を見せてあげられたら、と、そんな風に願うようになった。

 優れた翻訳家になるためには、日本語に精通し、紹介する先の言語や文化に精通している必要がある。英語に精通する優れた訳者は多いから、もっと思いっきり違う世界を見せてあげたい。

 学ばなければならないこと、経験しなければわからないことはたくさんあるし、そもそもどこに向かったらいいのかさえ、私にはまだわからない。

 だから決めたのだ。とりあえず世界中をめぐってみようと。触れられる限りの文化に接し、手に取れるだけの書籍を手に取ってみて、ここだと思える場所を見つけようと。

 目を閉じて想像してみる。胸の高鳴りと不安がまぜこぜになる。いいではないか。それもまた、開拓者たらんとする者の醍醐味なのだから。

≪了≫

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