【短編小説・二話完結】橘めるるの憂鬱・1
橘めるるは憂鬱である。朝六時半に目覚ましで起きると、いつものように男友達からラインが入っていた。
ラインはかなり長文に渡り、スクロールしないと読めないぐらいまで書いてしまってあるものが八個届いていた。内容は、最近のその友達の失恋についてである。
「俺はどうやって生きたらいいんだろう」ラインはその文言で締めくくられていた。
知らんわ! と正直、橘めるるは思う。
ラインの送り主はまだ大学生だ。君と違って社会人であるこっちは忙しいし、朝から元気出してかなきゃいけないのだよ。失恋なんぞに浸っている暇などあるものか。
もう三か月近く、ほぼ毎日この調子なのだ。一言、迷惑なのでやめてほしい、と言えば済むはなしなんだろうけれど、めるるにはそれができない理由がある。
この友人を切り捨ててしまうと、あのひととのつながりがまったくなくなる。あのひととのつながりがまったくなくなるということは、故郷からも東京からも切り離されたこの田舎町に、永遠に封じ込められてしまうことのように感じる。「このまま、この町で一生を終えるのだろうか」なんて考えてしまう。
橘めるるは友人に「迷惑だ」と言う代わりに冷蔵庫を開けた。なかからチョコボールの新しい箱を取り出す。
一人暮らしのめるるの部屋の冷蔵庫には、病的なまでにチョコボールの箱が並んでいる。きちんと並べられたチョコボールたちの半分は、セロファンをはがされ、中身が途中まで食べられているものであり、箱にはマジックで日付が書かれている。あとの半分はまだ未開封のものである。
めるるは取り出した未開封のほうのチョコボールを開けて、乱暴に何粒か取り出し、口のなかに放り込んだ。
「よし、がんばろう。がんばりましょう!」
めるるは自分の頬を叩き、朝食の準備を始める。
全粒粉の食パンの周り一周にマヨネーズを掛け、生卵を真ん中に落としてトースターで焼き、その間に鶏肉とトマトとニンジンと豆のスープを作る。
朝ごはんに時間は掛けられないけど、しっかり食べないとスタミナが持たない。朝のニュースをざっと観ながらごはんを食べて、身支度する。
もう八月だ。きょうも既に、ぎらぎらと太陽が照り付ける予感がする。めるるは水色のストライプのノースリーブ・ワンピースを慌ただしく着て、白いサンダルを履いて出かける。迷ったが、黒い日傘を選んだ。服に合わなくても、陽に焼けないようにするのが最優先だ。
めるるの勤める会社は、自宅から二駅のところにある。「水のトラブル039」でお馴染みの、水道関係の修理を請け負う会社「ウォーターレスキュー」の一営業所だ。
会社には制服があるので、更衣室で慌ただしく着替える。着替え終わって外階段を上り、あとちょっとで事務所の入り口だというその瞬間に、めるるのスカートのボタンが勢いよく飛んだ。
「え? 太った? 私、太った? それとも金属疲労?」
めるるは動揺を隠せない。
「金属疲労はないね。だって金属じゃないもんね」
後ろから声を掛けてきたのは、中条夢子先輩だ。「夢子」という名に似つかわしくなく、さばさばしているひとだ。夢子先輩はめるるの肩をぽんぽんと慰めるように叩くと、そのまま先に行ってしまった。
めるるは仕方なくスカートを抑えながら事務所に入り、デスクの引き出しを開けて、書類を止める用のダブルクリップを取り出す。身体をひねって、なんとか左脇のボタンのところをクリップで止めた。
クリップをベストで隠す。ポケットに仕舞っていたチョコボールの箱を取り出すと、いく粒か口のなかに放り込んだ。
ついてない、とめるるは思う。ついてないときやむしゃくしゃしたときは、チョコボールを食べることにしている。
スカートのボタンが飛んだのはチョコボールの食べすぎではないか、という考えは、いまのところ、めるるの念頭に浮かんでいない。
めるるの主な仕事は、水のトラブルに困ったひとからの電話の受付対応と対応時の報告書、および修理後の明細書の作成業務である。
現場社員の報告書に従って、明細書を作成する。忙しいときはものすごく忙しいし、暇なときにはものすごく暇である。
いま、めるるは暇である。コピー仕損じた紙をメモ用紙にするために、四等分にはさみで切っている。社会人たるもの、暇なときも仕事してます風な感じを出していないとだめなのだ。
会社員を六年もやっていると、それなりに暇のつぶし方を覚えるものである。
紙をはさみで切りながら、同僚の咲菜ちゃんが小出主任に怒られているのを盗み見ている。怒られているというか、もうじゃれあっているに近い。小出主任は、咲菜ちゃんのような天然ボケのうっかり女子が大好物なのだ。
「水道の蛇口取り替え、トイレの上物取り替えの二件で一億七千八百五十万円ってどういう計算なんだよ。おかしいなあとか思わないの? 間違え方がぶっ飛びすぎてて、なんて言っていいかわからないよ」
小出主任は笑っている。咲菜ちゃんもつられて笑っている。
「すみません。なんか変だなあとは思ったんですけど」
「変だなと思ったら、見直さなくちゃだめじゃない。そのまま持ってきちゃったの?」
「はい。なんとなく」
小出主任に特別な感情はないが、目の前でいちゃこらされるとしゃくである。
めるるは基本的にミスをしない。計算間違いも誤字脱字も、指摘されたことがない。だから小出主任といちゃこらすることもない。めるるはまたチョコボールの箱を出して、何粒かかみしめた。
(明日につづく)