【短編小説】 耳
高校生のとき初めてできた彼氏は、横顔が綺麗だねと言ってくれた。私たちは誰もいない教室の窓から、グラウンドで繰り広げられているサッカーの練習試合を観ていた。
「特に、耳が綺麗。楓の耳、すごくいい形してる」
彼はそう言って、私の髪をゆっくりかき上げると「すごく形のいい」耳をそっと嚙んだ。じんと熱くなった耳の感覚を、いまでも覚えている。
でも恋はそんなに簡単なものでもなくて、その男の子とは早々に別れることになってしまった。目撃してしまったのだ、彼のSNSの投稿を。そこには『俺の彼女、前から見ると並みだけど、横顔だけはさいこー! 特に耳がたまらなくそそる!』と書かれていた。クラスメイトのなかには、件の彼女が私だと知っているひとも何人かいて、誰にもなにも言われなかったけど、なんだかとても恥ずかしくて。私は彼氏とはすぐに別れ、そしてそれ以来、耳を髪で隠すようにこころがけて生きてきた。
私の耳が再び陽の光を浴びたのは、美術大学に進学してからだった。親友となった咲良は、クロッキー帳に私の横顔を何枚かスケッチしていたのだが、その時「髪をかき上げて耳を出してみて」とリクエストされた。スケッチしあうことは私たちの立派な修練だから、リクエストには応えなくてはならない。おそるおそる髪をかき上げて耳を見せると
「あらー。綺麗な耳だわ。隠してるのもったいない」
と咲良はあっさり言って、スケッチを続けた。
そんな咲良は、大学に通いつつ、アクセサリーのデザインと製造販売をネットで展開しているクリエイターだった。そして私に、ハンドメイドのピアスやイヤカフ、イヤリングをネットに掲載するためのモデルにならないかと誘ってきた。
「製作費考えるとあんまりお金にならない仕事だからさ。モデルは手近なところで探したいんだよね。ちょっとはバイト料出すよ? やってみない?」
咲良はさっぱりとしていて感じのいい友達だから、トラウマを脱ぎ捨てるつもりで引き受けた。ピアス穴は、咲良と一緒に開けに行った。
「最近は耳の下のほうに空けるのがファッション界の主流なんだよね」
と咲良は言い、その通り耳たぶの下の方に、小さな穴を空けた。
「耳のモデルはね。耳が綺麗なだけじゃだめなの。首が細くて長くて、デコルテのラインも綺麗で、あごもすっとしていないとだめだし、もみあげの生え方も美しくないといけないし。もちろん、髪もふわっとしてなめらかで、肌も白くてきめ細やかじゃないと。鼻もすらっと高いほうがいいし、鼻先と唇、あごのラインが一直線上にあるのが理想。信じられないことに、楓はその条件をすべてクリアしているの。これってすごいことなんだよ?」
咲良に褒められると、素直に胸に沁み落ちた。
思い上がりじゃないといいけど、私がモデルになってから、咲良の制作する耳関係のアクセサリーの売り上げはぐんと伸びた。受注生産だから、咲良はとても忙しくなって、大学どころじゃなくなってしまった。
「大学をやめようと思う。ピアス以外のアクセサリーの売り上げも伸びてきたし、田舎で広めな部屋借りて、アトリエ兼自宅にして、創作活動に励むことにした。いま頑張れば、なんとかこれ一本で食べていけそうな気がするから」
咲良の言葉はあまりに急だった。じゃあ、私は? どうすればいいの? いままで一緒にやってきたのに……。思わず涙目になってしまった私に咲良は言った。
「楓、世界は広いし、明日どんなことがあるかもわからない。頼りになるのは自分だけ。自分の力と才能だけ。でも、もしこれがいまの楓の力になるなら―――」
咲良は一枚の名刺を私に差し出した。聞いたことのないモデル事務所の名前が書かれていた。
「手とか耳とか、目とかだけを扱うパーツモデルの事務所なの。私のサイトを見て、楓を紹介してほしいって言ってきた。どうする?」
―――そんなわけで、私はいま「耳」一本で食べている。
現場はとても不規則で、仕事のある日は早朝から深夜まで、ひたすら着替えて、髪やメイク、商品を替えながら、あらゆるロケーションでの撮影が続く。想像以上に過酷だし、モデルとして商品でいるためには、食生活や運動から肌や髪の手入れまで、見えない努力が必須なのだ。
年齢を重ねたときにどうやって生きていくかも考えて置かなければならないし、不安がないと言えば嘘になる。
だけどいま私は、こんな生き方も悪くないと感じている。世界は広いし、明日どんなことがあるかもわからない。頼りになるのは自分だけなのだから。
≪了≫
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