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【マキアヴェッリ語録】 第8回

マキアヴェッリ語録


🔷 塩野七生しおのななみさんの『マキアヴェッリ語録』からマキアヴェッリの言葉をご紹介します。マキアヴェッリに対する先入観が覆されることでしょう 🔷

7年前にブログで投稿した記事を再構成し、時には加筆修正して、お届けします。(2015-05-21 14:35:38 初出)


目的は手段を正当化する

 マキアヴェッリ(日本ではマキャベリと表現されることが多い)は『君主論』の著者として知られ、「マキャベリズム」が人口に膾炙しています。


 その思想を端的に表現する言葉は、「目的は手段を正当化する」です。


 目的のためならどんな手段を講じてもかまわない、と解することが多いですね。


 実は、私もこの書を読むまではそのように解釈していました。
 言葉を文脈の中で解釈せず、言葉が独り歩きすることの怖さは、風説の流布でも経験することです。


 福島第一原発事故以後、周辺にお住まいの方々は風説の流布に悩まされ続けています。拡散した誤情報はさらに誤情報を加え、拡大していきます。
 容易に訂正されることはありません。


 話しを戻しますと、マキアヴェッリの実像はどのようなものであったのか、そして「目的は手段を正当化する」と言っていることの真意は何だったのか、を知りたいと思いました。


 先入観を取り払い、大前研一さんが言う、「オールクリア(電卓のAC)」にしてマキアヴェッリの説くことに耳を傾けることにしました。


 マキアヴェッリは、1469年5月3日にイタリアのフィレンツェで生まれ、1527年6月21日に没しています。15世紀から16世紀にかけて活躍した思想家です。500年位前の人です。

 


 塩野七生しおのななみさんは、「まえがき」に代えて「読者に」で次のように記しています。塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由を説明しています。


 尚、10ページ以上にわたる説明からポイントとなる言葉を「抜粋」しました。

塩野さんが解説ではなく、また要約でもなく、「抜粋」にした理由


この『マキアヴェッリ語録』は、マキアヴェッリの思想の要約ではありません。抜粋です。
なぜ、私が、完訳ではなく、かといって要約でもなく、ましてや解説でもない、抜粋という手段を選んだのかを御説明したいと思います。

第一の理由は、次のことです。
彼が、作品を遺したということです。
マキアヴェッリにとって、書くということは、生の証あかし、であったのです。

マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し」は、今日まで残り、しかもただ残っただけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあるのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがいありません。

抜粋という方法を選んだのには、「紆曲」どころではないマキアヴェッリの文体が与えてくれる快感も、味わってほしいという私の願いもあるのです。そして、エッセンスの抜粋ならば、「証例冗漫」とだけは、絶対に言われないでしょう。

しかし、彼の「生の声」をお聴かせすることに成功したとしても、それだけでは、私の目的は完全に達成されたとはいえないのです。マキアヴェッリ自身、実際に役に立つものを書くのが自分の目的だ、と言っています。
 

『マキアヴェッリ語録』 「読者に」から PP.3-6、15        

  


 お待たせしました。マキアヴェッリの名言をご紹介していきます。


マキアヴェッリの名言


第1部 君主篇



君主にとって、厳重のうえにも厳重に警戒しなければならないことは、
軽蔑けいべつされたり見くびられたりすることである。
                       
   

『マキアヴェッリ語録』 「君主論」から P.93            



君主にとっての最大の悪徳は、憎しみを買うことと軽蔑されることである。


それゆえに、もしもこの悪徳さえ避けることができれば、君主の任務は、相当な程度にまっとうできるであろうし、他に悪評が立とうと、なんらおそれる必要はなくなる。

憎悪は、国民のもちものに手を出したときに生ずるのだから、それをしなければ避けるのはやさしい。

古今東西、人間というものは、自分自身のもちものと名誉さえ奪われなければ、意外と不満なく生きてきたのである。

一方、軽蔑は、君主の気が変わりやすく、軽薄で、女性的で、小心者で、決断力に欠ける場合に、国民の心中に芽生えてくる。

それゆえ、君主たる者、航行中の船が暗礁あんしょうに注意するのと同じ気持で、右に記したような印象を与えないよう注意すべきである。
 
そして、自分の行うことが、偉大であり勇敢であり、真剣で確固とした意志にもとづいていると見えるよう、努めねばならないのだ。

『マキアヴェッリ語録』 「君主論」から PP.94-95           
                    
                    
 


               
   


人の上に立つ者が尊敬を得るには、どのように行動したらよいかについての考察だが、なによりもまず第一に、大事業を行い、前任者とはちがう器であるということを、人々に示すことであるとわたしは言いたい。

なぜなら、大事業を行えば、しかもそれが次々と為されれば、人々は呆気あっけにとられて感嘆してしまい、他のことに心を使う暇も気も失ってしまうからである。

第二は、敵に対する態度と味方に対する態度を、はっきりと分けて示すことである。人の上に立つ者がこの種の明快さを示すとき、人々は彼を尊敬するようになる。
        

『マキアヴェッリ語録』 「君主論」から PP.97           


マキアヴェッリの語る言葉は深い

                            
🔶 マキアヴェッリの語る言葉は深い、と思います。

マキアヴェッリは人間観察に優れた人だった、
と想像します。心理学にも長けていたのでしょう。

「君主」を「リーダー」に置き換えて考えてみるとより身近に感じられるでしょう。

マキアヴェッリは「軽蔑」されることに警戒しなさい、と言っています。
軽蔑されるのは、「気が変わりやすく、軽薄で、女性的で、小心者で、決断力に欠ける」からだと断定しています。

そのため「自分の行うことが、偉大であり勇敢であり、真剣で確固とした意志にもとづいていると見えるよう、努めねばならない」と述べています。

そして尊敬を得るためには「なによりもまず第一に、大事業を行い、前任者とはちがう器であるということを、人々に示すことであ」り、「敵に対する態度と味方に対する態度を、はっきりと分けて示すことである」とも述べています。

これらの考え方は現在でも十分に通用すると私は考えています。

時と場合によって、君主(リーダー)たる者は「はったり」を
かますことも必要である、ということです。


ただただ馬鹿正直に発言し、行動していては軽蔑される
だけだ、とマキアヴェッリは教えている、と解釈しました。


マキアヴェッリは直截的にビシッと言い放つため、
不快感よりもむしろ爽快感を与えてくれます。


曖昧な表現を極力避け、ストレートに話す態度は自信の
現れであり、一面、傲慢のように見えますが、その態度を
貫き通すことができれば、尊敬されるようになる、と言えます。

マキアヴェッリは人間の本質的な側面をえぐり出して、
白日の下に晒す類まれな人物だった、と想像できます。


戦略家であり、優秀な参謀であり、心理学者であり、
歴史学者であり、哲学者と言ってもよいくらいです。



『リーダーシップの本質』

堀紘一氏の『リーダーシップの本質』と対比していただくと、興味深い事実を発見できると思います。



🔷 著者紹介

塩野七生しおのななみ<著者紹介から Wikipediaで追加>

日本の歴史作家、小説家である。名前の「七生」は、ペンネームではなく本名。
東京都立日比谷高等学校、学習院大学文学部哲学科卒業。

日比谷高時代は庄司薫、古井由吉らが同級生で、後輩に利根川進がいて親しかった。

1970年には『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で毎日出版文化賞を受賞。

同年から再びイタリアへ移り住む。『ローマ人の物語』にとりくむ。

2006年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した(文庫版も2011年9月に刊行完結)。『ローマ人の物語Ⅰ』により新潮学芸賞受賞。

99年、司馬遼太郎賞。

2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。

2007年、文化功労者に選ばれる。

高校の大先輩でした。




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