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新潟県中越地震から20年


新潟県中越地震とは

昨日で、2004年10月23日17時56分に発生した新潟県中越地震から丸20年を迎えました。
震源に近い新潟県北魚沼郡川口町(現長岡市)で震度7を記録した本震(M6.8)から1時間以内に最大震度6強の余震が二度も発生。
64名(直接死16名・関連死(避難生活や雪崩災害など)48名)の犠牲者が出たほか、地域の畜産業や養鯉業、農業にも大きな被害が及び、当時の日本では阪神・淡路大震災以来の大きな地震災害となりました。地元新潟県ではこの地震災害について、「新潟県中越大震災」という呼称が使用されています。

当時、私は21歳の大学2年生。
10月23日土曜日の夕方、京都市内の下宿に引きこもってネットサーフを楽しんでいる時に、Yahoo!JAPANのトップページに表示された速報で第一報を知りました。

今日は、当時書いていたブログの記事を抜粋、編集し、あの時自分がどのように新潟県中越地震に向き合っていたかを振り返ることにします。

学生時代のブログから振り返る新潟県中越地震

2004年10月23日
 そんななか新潟県中越で大地震。しかも震度6強が3連発。各局の災害報道にかじりついてしまう。19時からのドラえもんスペシャルは「新幹線脱線」のテロップとともに中断された。後で聞いたところ、テレビ東京は呑気に旅番組を流していたらしい。

 新幹線の方ではけが人1人出なかったようだが、住宅の倒壊や地震のショックによる死者の数が画面を見つめる間に次々増えていた。

弊ブログ「台湾迷日記(my diary since 2003)」より抜粋

新潟県中越地震では、上越新幹線の浦佐→長岡間を走行中だった東京発新潟行きの「とき325号」(200系K25編成・10両編成)が脱線。
史上初めて営業運転中の新幹線電車が脱線するという事態になりましたが、幸いにも乗員・乗客からは1人の負傷者も出ませんでした。
結果的に、改めて新幹線の技術や安全性の高さが証明されることになった事故ですが、テレビで第一報が流れた際は最悪の事態を想像した方も多かったのではと思います。

「とき325号」と同型の200系リニューアル車(2008年)

2004年10月24日
 死者は22人、不明者若干名、今後も増加の恐れ。
 4年前の鳥取(注)では、豪雪に備えた堅牢な家屋が多くの市民の命を救った(結果的に震度6強でも死者0人)そのこともあり、今回も死者なしという奇跡を願ったのだが、残念ながらそれは叶わなかった。改めてご冥福をお祈りします。

 報道特番は夜通し続いた様子。朝起きると小千谷市と川口町の境付近の空撮中継が延々と流れていた。上越線と国道が斜面と一緒に崩れ落ち(注2)、近くの家も崩壊している。他局を見ると夫と孫娘を亡くした川口町の女性ヘのインタビュー(よく承諾されたものだ。それとも取材を強制されたのか?)、脱線した新幹線とき325号の先頭車の無惨な姿。(しかし人的被害なし)画面下には災害情報のテロップが延々と流れている。

 人的被害や住宅の損壊も相当なものだが、ライフラインや交通機関の被害も深刻だという。ここに交通機関の被害状況を挙げておくが、新幹線では40年にわたった営業列車による無事故記録が途切れ、新幹線、在来線、高速道路の寸断が原因で22年ぶりに東京-新潟間の航空便が復活する羽目になった。

弊ブログ「台湾迷日記(my diary since 2003)」より抜粋(一部修正)

「4年前の鳥取」というのは、2000年10月6日に発生した鳥取県西部地震を指します。この地震はM7.3と阪神・淡路大震災に匹敵する規模で、鳥取県日野郡日野町と境港市で震度6強を記録しました。
被災地では家屋倒壊による閉じ込め被害もいくつか発生したようですが、地盤が強固だったこと、積雪地ゆえ家屋の構造が堅牢だったこと、さらには発災2ヶ月前に大地震を想定した訓練が行われていたことなどが幸いし、奇跡的に1人の死者も出ませんでした。
「上越線と国道が斜面と一緒に崩れ落ち」というのは、長岡市妙見の大規模土砂崩れを指しますが、このブログを書いた3日後に奇跡的な出来事が起きることになります。

2004年10月27日
 1限は今日も寝倒し、3限もほとんど聞き流して大学を後にした私。「ザ・ワイド」の災害報道でも見ようと思いテレビをつけると… 

 各局で「土砂崩れ現場に生存者」の報道特番が放送されていた。地震発生から行方不明になっていた小出町の家族3人が乗った車が長岡市の土砂崩れ現場で発見され、中に生存者がいたということ。既に2歳の長男が救助され、病院で手当てを受けておりあとの2人も生存反応との情報。というわけで勉強しながら救出活動を逐一見守る。しかしあとの2人の救出活動は難航の様子。途中何度も余震で中継画面が揺れた。5時ごろようやく母親も救出。ところが…

 「母親は心肺停止」の報道が流れる。えっ、さっきは「消防隊員の呼びかけに反応した」とか言っていたのに…。画面にも一時「3人生存」って出ていたのに。後で知ったことによると、後の2人の心音確認だとか、母親が応答したとかいうのは全て情報が錯綜する中生まれた誤報であったようである。結局母親は死亡が確認された。残る3歳の長女の救出作業は夜も続く。
*(編者注)その後長女の死亡も確認された。二次災害の恐れなどから、長女の遺体搬出には慎重な作業と長い時間を要した。一方、奇跡的に助かった長男はその後順調に回復し、地震からまもなく1年になろうとしている現在仏壇の母と姉にお茶を供えているという。
なお、この一連の救出劇はドキュメンタリー番組や読みきり漫画になり、現場については先ごろ保存の方針が決まったという。(2005・10・21)

弊ブログ「台湾迷日記(my diary since 2003)」より抜粋(一部修正)

この9年前に実家のある兵庫県尼崎市で阪神・淡路大震災を経験していた私は、一連の新潟県中越地震に関する報道についてとても他人事には思えず、また将来また起こるであろう大地震に対して備える必要性も感じていたため、人一倍敏感に反応していたように思います。
大学の授業がない時間帯はひたすら報道番組にチャンネルを合わせて、情報を収集していました。
そんな時、Y・M少年(当時2歳)が地震発生から92時間ぶりに、長岡市妙見の大規模土砂崩れ現場から救出される一部始終をテレビの生中継で見届けました。
お母様、お姉様が生還できなかったのは悲しかったですが、Y・M少年が冷たい瓦礫の中に閉じ込められながら生き延び、救助されたというニュースは、相次ぐ災害報道の中での数少ない明るい話題で、多くの人々が元気づけられたのではと思います。

2024年現在、Y・M少年は22歳の青年となり、今春に東京の大学を卒業、無事に就職されたとのことで、末永く元気で平和に過ごして欲しいと願うばかりです。

おわりに

あれから20年。
地震で大きな被害を受けた地域では集落の再建、畜産業や養鯉業、農業の復興が進められましたが、その後の高齢化と過疎化が深刻な状況と聞きます。

最大の被害地だった自治体のうち、北魚沼郡川口町と古志郡山古志村は地震後ほどなく長岡市に編入。
地震発生当時の山古志村長だった長島忠美氏は、山古志村が長岡市に編入された後国政に転出し、2017年に66歳の若さで他界しました。

課題は多々あったことと思いますが。山間部の過疎地を襲った未曾有の大震災からの復興は、今年2024年元日に発生した能登半島地震の被災地の復興にもいくつかのヒントを与え得るのではと思います。
奥能登は中越地方以上に都市部からのアクセスが困難な地域で、この点が救援活動や復旧活動に際しても不利に作用したといいますが、中越地方をはじめとする他の地域での地震災害の復興事業で得られたものを参考にしつつ、一歩一歩復興に向けて進んで欲しいと思うばかりです。

最後になりましたが、新潟県中越地震をはじめとする災害で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、奥能登、東北といった大災害からの復興途上にある地域が一日も早く真の復興を遂げる事を願って結びとさせていただきます。

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