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追悼・中川李枝子先生~「いやいやえん」についてあれこれ考えてみた
はじめに
去る10月14日、絵本シリーズ「ぐりとぐら」の作者として知られる児童文学作家の中川李枝子先生が89歳で亡くなられました。
「ぐりとぐら」と並ぶ中川先生の代表作が短編童話集「いやいやえん」(1959年同人誌で発表、1962年福音館書店より刊行)で、三世代以上に渡って日本の家庭や幼稚園、保育園、こども園で読み継がれているわけですが、今日はこの「いやいやえん」について思ったことをいくつか綴ってみます。
1.「くじらとり」と捕鯨大国・日本
「いやいやえん」には7つの短編が収録されていますが、そのうちの1つが「くじらとり」です。
「くじらとり」のストーリーは、ちゅーりっぷ保育園の年長組「ほしぐみ」の男子園児が積み木で「ぞうとらいおんまる」という船を作り、捕鯨の真似事をするというものですが、ある程度の年齢より下の世代の人にはピンと来ないかもしれません。
「いやいやえん」が同人誌上で初めて発表された1959年当時の日本では捕鯨が盛んに行われており、この年ノルウェーを追い抜き世界最大の捕鯨国となったところでした。
日本の船団が太平洋や南極海で捕獲した鯨は、食肉や工業用の油に加工され、高度経済成長を支えていました。
しかし、鯨の持続的利用を支持する捕鯨国と反捕鯨国の間の対立が激しくなり、妥協に至らない状況下で国際捕鯨委員会(IWC)が商業捕鯨モラトリアムを採択。
この影響で、1988年からIWCを脱退する2019年までの31年間、日本は商業捕鯨を中止せざるを得ない状況に追い込まれました。
【参考サイト】日本捕鯨協会
1980年代前半生まれの私は、物心付いた時代には商業捕鯨が中止され、学校給食でも鯨肉にお目にかかる機会は全くなかった世代。
それゆえ、「くじらとり」の物語にはいまいち親近感がわかなかった世代になるのかもしれませんが、商業捕鯨が再開され、鯨肉の流通が増えれば、これから幼稚園や保育園、こども園、小学校に通う子どもたちにとって「くじらとり」の物語は身近なものになるやもしれません。
2.「赤は女の子の色」~「いやいやえん」に見るジェンダー考
「いやいやえん」の主人公である保育園児・しげるは、母親から赤い服を着せられそうになった際、「赤は女の子の色だから嫌だ」とダダをこねました。
(後にこの発言が原因で強烈なしっぺ返しを食らうことになるわけですが)
また、先述の「くじらとり」では、一部の女子園児が「私も船に乗せて欲しい」と申し出たところ、男子園児から拒否され、彼女たちは港で船を見送り、出迎えるだけにとどまったというくだりがありました。
このあたりは、「男は男らしく」、「女は女らしく」という考えが強く、男女共同参画という概念もなかった1950~60年代ゆえ、致し方ない面があるのかもしれません。
ちなみに、昭和30年代当時の日本では、本当に「赤は女の子の色」だったのでしょうか。
これについては、突っ込みどころがあります。
「いやいやえん」が発表された時期にはすでに現役を退き監督となっていましたが、戦後間もない頃にプロ野球界で活躍した東京読売巨人軍の川上哲治選手は、「赤バット」を使用してホームランを量産、野球少年に人気を博しました。
「いやいやえん」が書かれた昭和30年代半ばには、「赤胴鈴之助」という漫画が流行しており、保育園児たちのお兄さん世代の小学生を中心に読まれていました。
乗り物の世界に目を移すと、鉄道界に颯爽と登場した名鉄7000系「パノラマカー」はスカーレット一色の塗装でしたし、阪神電鉄の急行系車両も車体の下半分をバーミリオンオレンジに塗り分け「赤胴車」として親しまれていました。
この時代に生きていた人間ではないので実際のところは分かりませんが、以上の史実から考えるに、必ずしも常に「赤は女の子の色」とはされていなかったのではと思われます。
3.男子保育園児の女装シーンが登場する「ちこちゃん」
「いやいやえん」に収録されている短編の一つが「ちこちゃん」。
机に登って遊んでいて先生に注意されたしげるが、「ちこちゃん(同級生の女の子)も登っていたのだから」と言い訳した末、「そんなにちこちゃんの真似がしたいのならば」ということで何とちこちゃんと同じ女物の服を着せられてしまう話です。
今でこそ、女装や男の娘、LGBTQを扱った文学作品や映像作品は枚挙に暇がありませんが、昭和30年代の保育園児・幼稚園児向けの童話に男子園児の女装シーンを盛り込んでくるとは、ある意味中川先生は時代を60年先取りしていたのではと思いました。
4.「ぞうとらいおんまる」的な複合名称あれこれ
「くじらとり」では年長組の男子園児たちが積み木で作った船に名前を付ける際、「象が強いから象にしよう」、「いや、ライオンの方が象より強いからライオンにしよう」、「そんなことはない、象の方がライオンより強い」などと議論を重ねて紛糾。最終的に船に「ぞうとらいおんまる」と名付けるシーンがありました。
各方面から2つ以上の異なった命名案が出て調整が難航するなか、最終的に両者の意見を合わせた形の複合名称を採用するというのは、大人の世界でもよくあるように思います。
おそらく、地理ファンや鉄道ファン、高速道路ファンならばピンと来る方が多いことでしょう。
自治体名だと、山口県山陽小野田市、鹿児島県いちき串木野市など。
鉄道の駅だと、上越新幹線の燕三条駅や大阪メトロの西中島南方駅など。
高速道路のインターチェンジだと、北陸自動車道の三条燕ICや中国自動車道の神戸三田IC・滝野社ICなど。
また、銀行の合併後の行名についても、三井住友銀行や池田泉州銀行のように、合併前の各行の名前を組み合わせただけの名称が採用されることがあり、これもまた「ぞうとらいおんまる」の親戚みたいなものがもしれません。
おわりに
今回、中川李枝子先生の訃報に接し、幼い日に母親に読んでもらった「いやいやえん」のことをふいに思い出してみました。
なにぶん60年以上前の作品なので、現代の価値観からすれば突っ込みどころも多々ある作品でしたが、それでも保育園児の日常が感性豊かに微笑ましく描かれているのには好感が持てました。
個人的に一番気に入っている短編は「山のぼり」。
果物狩りや美しい山々の描写は美しく、読んでいてついつい果物が食べたくなってしまったことが思い出されます。
主人公のしげるは、わがままな面、やんちゃな面があり、ちょっと不器用な男の子でしたが、反面山から保育園に遊びに来た仔熊のこぐちゃんや自分をさらった狼と自然に打ち解けるなど、コミュニケーションや他者に愛される能力には長けている素敵な子どものように思います。
実在すれば現在60歳代後半の立派な男性になっているであろうしげる少年ですが、おそらくその後の学校生活でも活躍し、就職した先で大物になっていることでしょう。
最後になりましたが、中川李枝子先生、今まで素晴らしい児童文学作品をありがとうございました。天国でじっくり休まれてください。