小説にマンガ、ドラマ。情報量による表現の違い
物語の表現方法はさまざまだ。小説にマンガ、音声に映像。これは情報量の小さい順番に書いたものだ。わたしはたまに小説を書くので基本的にその視点なのだけれど、まったく同じ物語を描くにも、そのツールによっては全く違うものになる。
※ちょっとドラマ批判めいた記事だけど、自分としては批判というより、創作するときの1つの考え方を書いてるつもり。
ドラマ「ミスなか」に思うマンガと映像の違い
イチオシのマンガ「ミステリと言う勿れ」がドラマ化されたのを見て、「マンガに忠実なのになんか違う」という印象を覚えた。
登場人物のイメージとかはここでは関係ない。最初に配役が発表されたときは正直、「えー」みたいな反発もあったけれど、ドラマでハマってさえいればそのうち気にならなくなる(尾上松也の池本巡査は「ぜったいちゃうやろ」と思っていたけれど、今では一番好き)。
それどころか、別に全く別ものだっとしても、おもしろければそれいい。過去の小説とかマンガのドラマ実写化でも、それはそれ、これはこれ、と楽しめるものもたくさんあった。そういうものはたぶん、全然違う表現方法を使ってはいても、「原作の魅力である世界観なりポイントを押さえている」あるいは「原作関係なく完成度が高いもの」だと思う。
<追記>
原作にはない恋愛要素があったのを忘れてました。すみません。テレビはそういうの絶対入れるんでしょ、と最初からあきらめていたので完全スルーしていた。言われてみれば風呂光のキャラを深堀りするのに邪魔かもしれない。あまり気にしてなかったけど、令和はムリヤリ恋愛要素をねじ込む時代じゃないよね。
違和感①世界観
本作の題材は殺人事件、しかも残酷だったり犯人の思考回路がヤバかったりするし、ほかの登場人物についても心の闇を描く話だから仕方ないところもある。でも、マンガを読んでいるときは、暗いには違いないがそこまで感じなかった。
それが映像になると、長い「間」、映像の色味、流れる音楽のテイストにタイミングなど全体的に重い雰囲気。あえてそれを狙ったのだろうが、にしても息苦しさを覚えた。これが正解なのかもしれないけど、あのマンガを再現するとこうも暗くなるのか……と。マンガだと2次元で情報が少ないからこそ、ダークさがそこまでにならなかった、ともいえる。がしかし、マンガの中では登場人物のかもしだす雰囲気が比較的軽くて、それが出来事の暗さを和らげているような印象がある。
過去、同じくダークな作品でも「外事警察」はそれを感じることなく楽しめた。とおもったら外事警察の脚本はわたしの好きな古沢さん。当時は知らずに見たのでヒイキしてる訳じゃない。なんなんだこの差は。
明るくてポップな雰囲気だからおもしろいわけでもなく、暗い雰囲気だから気分が暗くなるわけでもない。この見せ方が映像の難しさなのだろう。
違和感②マンガだったらOKだけど
この暗さを一時緩和してくれる、ささやかな”ほっこりパート”も気になった。
分かりやすい例でいうと、カレー好きの久能が家で独り言とかフンフン歌いながら色々やっているのが、マンガだといいけれど映像で見るとちょっとイタい。こちらもマンガに忠実だし演技が悪いとも思えない。
あとは、久能が説教くさくて若干うざい。それもマンガの通りっちゃその通りだけど、「超うっとおしいやつなのに、なんか許せる」ような演出がもうちょっとほしい。
めんどくさい性格だけれど、基本は平和で無害な大学生が巻き込み事故にあって、そこで別に関わりたくもないのについ本領を発揮しちゃうのが久能という人間だ。ドラマでも描写(説明)されているんだけど、これだけじゃ納得できない。原作で読んだから知ってるし俳優が菅田将暉だしいいか、なんて思っちゃうけど、そうでなければ久能の好感度はもっと低かったかもしれない。
①の考察。関係者が増えると意図も増える
実際のところは知らないけど、単純にマンガづくりよりドラマ作りのほうが圧倒的にかかわる人が多いのは確かに違いない。つまり作品にたくさんの「意図」が介入する。マンガであれば漫画家と編集者だったのが、ドラマになると脚本家に監督とかだろうか。程度は低いにしろ、俳優の解釈も入ってくるだろう。そして現場だけでなく、上層部の意図も入り、これらはマンガとドラマでは異なる。
原作者の世界観あっての物語が、別の意図、別の解釈が入り乱れることで別のものになってゆく。それは当然のことだし、時には化学反応を起こしてより良いものに変貌を遂げることもあるが、本作では一番重要なポイントが外されてしまったように思えた。
もちろん、私が原作を好きだからこそ感じることであり、「このドラマめちゃくちゃおもしろい!」という人もいる。そして、「原作マンガは暗いようで暗くない」というのもまた、わたし個人の勝手な解釈。原作者にとってはわたしの解釈よりドラマが合っているというかもしれないし、あるいはもっと別かもしれない。
②の考察。情報量の差
漫画は2次元でコマ割り。動きがないので1コマで時間の流れや状況を表現するため、絵や言葉で説明する必要が出てくる。一方の映像は、人が動いてしゃべるし、ただの背景ですらもマンガとは比にならない情報量が詰まっている。
なのに、セリフは同じ?
もちろん、同じでなければいけない場面もあるだろう。しかし「久能が自宅で独り言とか鼻歌を歌いながらカレーをつくっている」シーンは、息抜きパートであると同時に、カレー好きの平和な大学生ということを表現しているところでもある。
この表現を、「久能は変人なのでそれもアリ」という見方もできるが、なんだか不自然でキモイ、と思ってしまった。菅田将暉の低音ボイスともマッチしてない感じだったし、セリフも説明くさい。
これまた久能の「うっとおしい性格」を表現しているといえばそうだけれど、映像ならではの別の表現がもっとできるんじゃないのか。独り暮らしのカレー作りでここまで具体的な独り言ってそんなにいう? ドラマのテイストによってはアリと思うけれど、本作に関してはイマイチだった。
鼻歌を歌いながらルンルン気分でカレーを作るのはアリとして、例えば
とか。セリフ以外で見せてほしかった。
最近のアニメ映画レビューなどでもたびたび見るのがこの「セリフで説明しすぎ」というところ。本作は特に、原作者である田村さんの絵やセリフの使い方がうまいが故に、映像化の関係者の想像力を駆使する必要性がなく頼りすぎたのか、とも思った。
あまりにマンガに忠実すぎると、3次元で動く人間に逆にリアリティがなくなる。なんだろう、「日常生活ではぜったい言わないセリフやしない動作でもドラマや映画だと許せる」ってのはあるのだが、ドラマのテイストや前後関係を考慮した上でも「ここでそのセリフ(動き)はないでしょ」と思わずつっこみたくなる場面がある。感覚的な話なので説明しづらい。
原作ありドラマの場合、特にマンガは小説より情報量が多い分、読者の違和感も出やすい。文字だけの小説はどんなに説明しても情報量が少ないため解釈の余地が多いが、マンガは絵がプラスされるため狭まる。情報量が増えるメディアになればなるほど、読者の解釈も一定の方向性を見いだす。
よく、口コミなどで「原作に忠実」ということで喜んでいるファンもいれば、同じ理由でガッカリしているファンもいる。本作において私は後者なのだけれど、前者だったら世界観だとか大事なシーンとかでツボを押さえていることを「原作に忠実」といってるんじゃないか。
もうちょい俯瞰した考察
①にも関係するけれど、1つの作品に関わる人数が多いほど、オリジナリティは薄まってゆくことが多い。そもそもストーリーの独自性はとがっているのに加えて原作者の匠の技が光る本作なだけに、その違いは明白だった。
2次創作は原作を拝借して再解釈が入り、作り手の都合も加味される。その現場については想像するしかないが、決定権を握る人物が誰なのかによっても変わってくるだろう。監督や脚本家の意向と経営陣の意向が合致すれば作品としての完成度は上がるだろうし、そこから離れるほど商業的な意味合いを増す。
本作を見たときに、まず主役の菅田将暉を筆頭に脇役も力の入れようが伝わってくる。番宣もずいぶん前からやっていた(大河ドラマとの兼ね合いもあったのかな)。原作者もいつもと違う雰囲気の作品だったので、映像化ありきの原作だったりして、という考えもよぎる。まあ、さすがにそれはないかもしれないけど、とにかく最近のドラマの中で期待が高かったのは確かだ。「失敗できない」仕事は力んでしまう。間違いのない仕事をしようとすると、慎重になって出来上がったものは広く浅く一般化されてしまう。
全然期待していなかったライトな深夜ドラマや恋愛ドラマに意外とハマり、豪華俳優陣に釣られて見たはいいがガッカリしたり、というのはこういうのだろう。
それでも、今までと違う「新感覚ミステリー」としての面白さを放つ本作はすごい。それは最初に原作者がいるからこそであり、次にマンガに魅了されて映像化を決め、今を時めく俳優たちを集めるだけの価値があると判断したドラマ製作陣がいるからこそ。
そう考えると、これが全国ネットのしかも月9で、いい感じの人たちに演じられたという事実だけで価値がある。興味を持った人がマンガを見てくれたらうれしい。原作者の田村さんが豊かになったりモチベーションが上がったりして次の作品に繋がるのはわたしの望むところだ。
1人で作り上げる唯一無二の世界・小説
小説は情報量が少ない。マンガや映像を100%文字で表現しようとしたらどれだけ膨大になるだろう。いまや動画や音声での表現も簡単にできる時代に、小説や文章は時代遅れなのか。というとそうでもない。
ミヒャエル・エンデじゃないけど、小説には余白がある。物語の表現方法の中で一番次元が低い分、想像の余地がある(赤毛のアンじゃないけど)。
読む人の数だけ違った解釈ができるのが小説だ。書き手としての私にとって一番のメリットはそこ。あとは単純に、文字だけで表現できるという手軽さ。手軽だからこそ誰でもできる。誰でもできるからこそ奥が深い。それが文章の世界だ。ただし、時代を超えて引き継がれる名著もある脇には、おびただしい数の名もなき作品が転がっている。
大勢が関わる唯一無二にあこがれる
多くの人が関与する仕事になると、”唯一無二”をつくるのは難しい。映画やドラマの現場は知らないが、仕事という枠組みで考えるとジャンルは関係ない。
ものすごい才能のクリエイターがいたとして、クリエイターの意思を尊重する現場でなければ力を発揮できない。それができたとき、なおかつ各分野において一流の人が集まったとき、1人では成しえない作品が生まれる。実はそういうのにあこがれている。
おまけの独り言
これを書いているわたしはいま、創作の世界ではなく、歩んできた組織のことを振り返っている。上記の文章だと「クリエイター=社員」「作品=仕事」に置き換えられる。理想に近い場所にいたこともあるけれど、なかなか難しい。同じ方向を向いた仲間と最高のものをつくるのは永遠の憧れであり目標だ。到達できるかどうかは別として、過程を楽しめたらなと思う。
で、本当は会社組織とかではなく創作で感じたい。仕事ではいろんな種類のライティングをしており、ある意味で自分の記事は作品ともいえるが、本当に書きたいものとは少し違う。
小説は趣味の範囲で、たまーに書く程度。でも仕事じゃないのでペースが遅い。好きでもない記事執筆はすぐに手をつけられるというのに。仕事の取引先とか、ちょっとでもいいから読者がいるとやる気が出るんだけどなと思う。わたしのような素人は横の繋がりが大事なんだろうが、そういうのが苦手だ。
にもかかわらず、別の小説投稿サイトで知り合った人が、休載中の作品に「いいね」してくれるのが本当にありがたい。この事実があるだけでこんなにも気分が違うのかと驚いた。いい人だ。もしかしたら、自分の作品を見てほしいがために機械的にポチってるだけかもしれないけれど、それでも私に効果はあるらしい。どちらにしろ、ポチるという動作をわたしのため(?)にしているわけだ。普段、人が苦手で避けがちだが、こういう事実に助けられてることは忘れちゃいけないなと思った。
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